****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps130/C

瞑想Ps130/C

1.「深い淵」の存在

  • 1節の「深い淵」(新改訳、関根訳、バルバロ訳、典礼訳、フランシスコ会訳)と訳されたミマアマキームは複数形で「深い深み」という意味です。新共同訳では「深い淵の底」と訳しています。足がかりのない、底なしの深みです。人間はだれでも、いつの世でも、魂の奥底にそうした「深い淵」を隠し持っているのです。それは別の言葉でいうならば「暗やみ」と言えます。しかしそうした「深い淵」が自分自身のうちに存在していることに多くの人は気づいていません。気づこうとしないのかも知れません。
  • この詩篇130篇には「不義」(あるいは「罪」とも訳されます)ということばが2回出てきます。「深い淵」と密接な結びつきがありそうです。
  • 「深い淵」は私たちの外側にも、また内側にも存在します。前者の例としては、旧約ではヨセフやダニエル、新約ではイエスの十字架、使徒パウロの様々な苦難などをあげることができます。後者の例としては、旧約では、ヤコブ(創世記32章のペニエル経験)、イザヤ(イザヤ書6章の見神の経験)、ダビデ(詩篇51篇)、新約ではペテロ(ルカ5章)、パウロ(ローマ7章)などです。特に、ダビデとパウロは自分の内に存在する「深い淵」を素直に認めた人と言えます。
  • 「深い淵」とは常に、人間を奈落の底に引きこもうとする力であり、否定しがたい汚れ、重苦しさ、霊的な闇、またそれによってもたらされる人間の苦悩のすべてを意味します。使徒パウロはそれを「罪と死の原理」と呼んでいます。その原理はすでに神の子とされたキリスト者に対しても、常に人間の「肉」に働きかけ、神のみこころに敵対するように働き続けています。人間の力ではどうすることもできない淵、それが「深い淵」と言えます。それゆえ御霊の導きが必要なのです。しかし感謝なことに、神はその必要(助け)をすでにキリストによって備えておられるのです(ローマ8章)。

2. 「深い淵」から呼び求める作者

  • 詩篇130篇の作者は、底なしの深みから、神に向かって呼びかけます。しかも一縷の望みを神に賭けて呼んでいます。
  • 1節にある「呼び求めます」という動詞はカーラーקָרָאは、120篇1節の「苦しみのうちに、私が呼ばわると、主は私に答えられた。」にある「呼ばわる」と同じ動詞です。詩130篇で「深い淵から呼び求めた」作者は、詩120篇では「答えられている」のです。詩篇120篇1節は「都上りの歌」の結論です。

3. 「深い淵」に共におられる主

  • 詩130篇には、「ともに」という言葉が3回登場しています。残念ながら、日本語訳ではそれが見分けられません。原文では次のようになっています。

    ①4節「まことに、赦しがあなた(主)とともに」(イメハー)with You
    ②7節「まことに、恵みが主とともに」(イム、アドナイ)with the LORD
    ③7節「そして、豊かな贖いが彼と共に」(イモー) with Him

  • 作者は、「深い淵」(苦しみ、泥沼、暗やみ)という自分の力ではどうすることもできない極(きわみ)から、もうひとつの極である「神」に向かって、一縷の望みを掛けて待ち望んでいます。その待ち望みこそ「都上りの歌」の中に一貫して流れているものです。

2011.7.1

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