瞑想Ps133/B
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瞑想Ps133/B
- ここでは、3節の「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」にある「そこに」という語彙に注目します。ヘブル語は「シャーム」שָׁםです。この語彙は前の詩篇132篇17節にもあり、両篇をつなぐキーワードとなっているように思います。
132:17「そこに(שָׁם)わたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。」
- 133:3の「シャーム」שָׁםは、新改訳では「そこに」と訳していますが、新共同訳は意訳して「シオンで」と訳しています。シオンは主がご自分の住みかとして望まれ、選ばれた場所です。そこは王であられる方の住まいであり、そこに主の民がいるべきですが、詩篇133篇は主にある「兄弟たちが一つとなって共に住む」ことのすばらしさに目を留めるようにうながしています。だれがうながしているのかといえば、それは「人称なき存在」である聖霊ということができると思います。
- 「見よ」(「ヒンネー」הִנֵּה)と「なんと」(「マー」מַה)は、いずれも人々に注意を喚起させる間投詞です。その内容は主にある「一つとなって共に住む」ということですが、その祝福のすばらしさをこの詩篇では二つのたとえを用いて説明しています。
(1) 末広がりの恩寵としての「油」
(2) 多くの結実をもたらす恩寵としての「露」
この二つはいずれも後に来られる「聖霊の象徴」です。それは「一つとなって共に住む」ところに命じられた神の永遠の祝福なのです。
- ところで、ここに述べられている祝福が、主にある者にとっても、またキリストのからだなる教会においても、注がれ続けるためにはひとりひとりが「聖霊に導かれる」ことが不可欠です。使徒パウロはローマ書8:14で「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」と記しています。正確には、「神の霊に導かれる人は、だれでも神の子どもであり続ける」という意味です。それゆえに、イエス・キリストを信じて神の子どもとされた者の生涯の課題は「神の霊に導かれ続ける」ことにあります。「聖霊に導かれる」とはどのようなことなのかを思い巡らす必要があります。
- イエス・キリストも洗礼を受けられた後、「御霊に導かれて」(ルカ4:1)荒野で試みを受けられました。そこでは40日間、たえず悪魔の誘惑を受け続けられました。しかし同時に御霊の導きの中にイエスはおり、御霊から来る思いと悪魔から来る思いを識別し、御霊から来る思いを絶えず選び取っておられました。いわゆる「霊的識別」、あるいは「霊動識別」です。それゆえ悪魔の誘惑に対してはっきりと神の思いを選び取って、悪魔の誘惑に勝利されました。もしイエスが「御霊に導かれ」ていなかったならば、勝利することはできなかったのです。そしてそれは私たちキリスト者も同様なのです。
- 使徒パウロはガラテヤ書5:16以降で、御霊と人間の生まれながら持っている「肉」(サルクスσάρξ)が常に敵対していることを述べています。「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです」(ガラテヤ5:17)とあります。キリスト者になっても肉は存在します。しかしキリスト者には神の賜物としての聖霊が与えられています。その方の「導き」に私たちが従って歩むことによって、はじめて私たちは自分のうちにある「肉」に打ち勝つことができます。
- 「肉」は私たちの生まれながらの性質であり、思いです。私たちの内に来る思いが御霊から来たものか、肉から来たものかを識別するには訓練が必要です。そのためには、絶えず「振り返り」が必要です。具体的には、私たちが見たり、聴いたりしたこと、自分に言われたことやされたこと、あるいは自分のしたことなどを識別するのです。私たちの外側に起こったことに対する自分自身の心の反応(特に、それに対する反応、思い、感情)を識別することです。
- すべての問題の根は外側にあるのではなく、私たち自身の内側にあります。教会における多くの問題は「肉」が引き起こしています。ですから、肉から来た思いを持ちながら、御霊にあって生きることはできません。対立しているからです。肉から来ている思いを寄り分けて、その思いを捨てることが必要です。霊肉の思いを合わせ持っているならば、パウロの言うように「あなたがたは自分のしたいことができない」のです。つまり、御霊による神の子どもとしての自己統合された生き方をすることができません。自分の思いについての「振り返り」の習慣を持つならば、神の御霊に導かれる者として豊かに成長し、必ず多くの御霊の実を結びます。しかもそこから祝福は末広がりに広がっていくと信じます。
- 御霊に導かれることについて、パウロのガラテヤ5:25のことばを心に刻みたいと思います。
〔新改訳〕
もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
〔新共同訳〕
わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
〔フランシスコ会訳〕
わたしたちは「霊」の導きに従って、生きているとするならば、また、「霊」の導きに従って前進しましょう。
〔エマオ訳〕
私たちは御霊によって生きているのですから、御霊に従って(みな共に)隊列を組んで歩みましょう。
- 以上のように、節の最後の動詞である「進もうではありませんか」、「前進しましよう」と訳されている原語は「ストイケオー」στοιχώです。列を作っている、隊列を組んでまっすぐに歩く、という意味です。エマオ訳は原語に最も近い意味で訳しています。動詞は現在形で能動態です。導きを与えるのは御霊ですが、共に隊列を組んで歩むのは私たちなのです。ここに共同体として「共に生きる」姿が実現します。そのことで、詩篇133篇の冒頭の言葉が迫ってきます。
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、
なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
2011.7.6