****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps137/A

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瞑想Ps137/A

  • 詩137篇のキーワードを「シオンを思い出して泣いた」としたいと思います。なぜこの作者は「泣いたのか」、その涙の意味について共感できるかどうかが鍵です。
  • 人でも、物でも、かかわりでも、失ってみてはじめてわかることがあります。この詩篇の作者もシオンを失って(エルサレム陥落)はじめてそのことの重さを感じのだと思います。シオンは神の民の要の地であり、神の臨在の場でした。その地が失われたことは自分が失われたことに等しかったと思います。そこで作者は祭司として、あるいはレビ人として神殿で神に仕え、賛美を司る者でした。当時、レビ人は20歳で登用されましたが、神殿で賛美に携わる奉仕者は30歳にならなければ登用されませんでした。それだけ霊的な教育が必要とされたということです。しかしそうした術もみな無用となった今、しかも異教の地で賛美を余興のために歌うことは到底できませんでした。なぜならそれは大変な屈辱だったからです。それゆえ作者は「バビロンの川のほとり、・・その柳の木々に私たちは立琴を掛けた」と表現しています。「竪琴を掛けた」とは自覚的行為です。
  • 神の回復のみわざがなされる前には、いつの時代でもこうした涙が背景に存在しています。「もしも、私がおまえ(エルサレム)を忘れたら」、「もしも、私がおまえを思い出さず、最上の喜びにもまさってたたえないなら」、自分の存在も自分に与えられたすぐれたものもなんら意味のないものだと告白しています。まさにシオンを愛する最初のシオニストがここにいます。
  • シオン(エルサレム)はまさに神の夢の実現の場所であり、そこにこそ神に仕える者たちがいるべきです。そしてこの夢をやがて神自ら実現すべく立ち上がられます。つまり、バビロンを倒したペルシャの王クロスによって、捕囚となった民たちは解放されてエルサレムに帰還することができました。神殿の礎が作られたとき、ダビデの規定に従って、柳の木々に立て掛けてあった立琴を取り、再び神を賛美するように回復されました。そのときにも民たちは涙を流しました。神をたたえるべく立琴を、決して柳の木々に立て掛けることなく、またその巧みさを神の栄光のためにささげられるまでに神は回復して下さったのです。
  • 私も、捕囚からの回復の恵みにあずかった者の一人として、神を最上の喜びにもまさってたたえたいのです。また、神の都エルサレムをわが魂のふるさととして心にとどめたいのです。

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