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瞑想Ps139/C

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瞑想Ps139/C

  • 瞑想Ps139/Cでは、最後の23節と24節のみことばに注目してみたいと思います。

    【新改訳改訂第3版】
    23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
    24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

    【新共同訳】
    23 神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。
    24 御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。

  • 詩篇139篇の最後の2節の祈りのことばは、御子イエスがこの地上において、しばしば一人になって祈っておられた(ルカ5:16)その祈りの内容を知る一つの手がかりがあるように思います。その生涯において御子イエスは、絶えず御父との交わりの中で、またその傍らでその交わりを支えている御霊の助けを通して、御父の思いを知り、みこころのうちに生きることを選び取っておられましたことを思えば、130:23, 24は御子が祈っておられた祈りと考えることができます。神との純粋な愛のかかわりを求めるダビデの霊性は、やがて御子イエスに、そしい使徒パウロへと受け継がれており、「いのちの道」の系譜を見ることができます。
  • 「いのちの道」とは、「神と人間が本来持っていたかかわりの道」のことです。神と向き合う存在として(これが「神のかたちに似せて」という意味)としての生き方です。ちなみに、この「とこしえの道」という表現は旧約ではここだけですが、作者はその「本来のあるべき、元の道」へと導いてくださいと祈っています。
  • さて、この23,24節の祈りを少し詳しく見ていくと、そこにはパラレリズム(並行法)を見ることができます。23節は「同義的並行法」、24節は「反意的並行法」です。
    23節の
    前半「神よ。私を探り、私の心を知ってください。」
    後半「私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」
    これらは、「同義的並行法」です。
  • 「私を探り」と訳された「探り」という動詞はヘブル語の「ハーカル」(חָקַר)です。徹底的に調べる、見出す、探す、探し出すという意味です。「私を調べ」の「調べる」は「バーハン」(בָּחַן)で、試みる、吟味する、精密に見る、テストするという意味です。類義的な語彙を重ね合わせています。
  • 御子イエスは、特に公生涯に入られる前に、「御霊に導かれて」荒野で40日間のテストを徹底的に受けられました。そのテストの内実は詩篇139篇24節の祈りのことばにあるように、「わたしのうちに傷ついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」という祈りであったと言えます。
  • 24節は前半の「傷ついた道」と「とこしえの道」とは反意的並行法です。「傷ついた」と訳されたヘブル語は「オーツェヴ」(עֹצֶב)で、旧約4回、詩篇ではここだけに使われている語彙です。意味としては「痛み、悲しみ、傷、悪いこと、不義、よこしま、不信、偶像崇拝」という意味があるようです。最後にある「偶像崇拝」という意味は、それによってもたらされる幻想的運命に終わる痛みということかもしれません。
  • ヨハネの第一の手紙の最後には「偶像を警戒しなさい」ということばで結ばれています。偶像とは世を愛すること、世にあるものを愛することです。世を愛することと御父を愛することは両立することができません。そこは敵対関係にあります。ですから、詩篇139篇の作者は、特に19~22節で、「私は憎しみの限りを尽くして彼ら(神に敵対する者)を憎みます。彼らは私の敵となりました。」(22節)と告白しています。ユダヤ的表現によれば、「一方を愛することは、他方を憎むこと」になるのです。ユダヤには日本のような曖昧な中庸的な表現はありません。「愛するか、憎むか」のどちらかなのです。
  • 御子イエスの公生涯の本格的なスタートとなる前に、試みを受けるために荒野に導かれました。そしてそこで御子イエスは悪魔からの誘惑を受け続けたのでした。サタンがこの世の栄華をサタンは一瞬にして見せて、私を礼拝するならこの世の栄光(繁栄)を与えようと誘惑しましたが、御子イエスはその誘惑を退けることができました。それは御子が聖霊に導かれて、「私をとこしえの道へ導いてください」と祈っていたからではないかと推察します。私たちは生まれながらにして肉的性質を持っています。キリスト者になっても、その性質は私たちのうちに内在しています。聖霊も内在しておられます。しかし聖霊の導きは自動的ではありません。私たちが意識的に、自覚的に、肉から来る思いと聖霊から来る思いとを、瞬時に判別し、肉から来ている思いを捨てて、聖霊から来ている思いに従わなければなりません。その点では私たちの多くは失敗するのです。何ども何度も失敗するのです。もし主の赦しがなければ、神にしたがっていくことなど到底出来ません。聖霊の導きがあることをまず心から感謝し、それに従えるように祈る必要があります。
  • 詩篇139篇23, 24の「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」と祈る祈りこそ、キリストにあって新しく造られた者の継続的な祈りではないかと思います。神との交わりの中で、自分の心を「振り返る」静かな時が必要です。「振り返り」の中で自らの心を神の赦しのサーチライトをもって点検するのです。そして、神に敵対する「肉の思い」から来たさまざまな思いや感情を点検し捨て去るのです。また聖霊から来た「思い」に従う「振り返り」を日々持つことです。詩篇139篇23, 24節の祈りを自分の「振り返り」の祈りとして用いたいと思います。

2011.7.20

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