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瞑想Ps143/B

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瞑想Ps143/B

  • 詩篇143篇におけるダビデの霊性の特徴をあげるとすれば、それはダビデが主の中における「静謐」の重要性を認めていたということです。
  • ヘブル語の動詞には「強意形」があります。それはその動詞の意味を強めたり、物事の動作を反復して行うことを表わしたりするときに使われます。詩篇143篇にある強意形の動詞を順に抽出してみると、以下のようになります。

(1) 5節の「静かに考えています」と訳されたヘブル語は瞑想用語で「スィーアッハ」(שִׂיחַ)
(2) 6節の「手を差し伸べ」「慕います」と訳されたヘブル語は一つで、「広げる」を意味する「パーラス」(פָּרַשׂ)
(3) 9節の「身を隠します」と訳されたヘブル語は本来「おおう」を意味する恩寵用語「カーサー」(כָּסָה)ですが、ここで珍しく礼拝用語として、神の中に自分を覆うという意味で「身を隠す」と訳されています。神への隠遁を表わしています。
(4) 10節の「教えてください」の「ラーマド」(לָמַד)
(5) 11節の「生かしてください」の「ハーヤー」(חָיָה)

  • 以上の強意形で記されている動詞を拾ってみると、この詩篇の中でのダビデの霊性が浮かび上がってくるように思います。これらの行為がいつも繰り返されていたと考えるならば、ダビデの霊性とは、追い詰められた状況にあっても、いつも主に心を向けて(広げて)、静まりの時を持っていたことがわかります。主の前に「静まる」ことの重要性はどんなに強調してもしきれません。
  • この点において、イスラエルは失敗したからです。国を襲う危機において、ユダの王は大国のアッシリヤの王を頼ろうとしたり、エジプトに頼ろうとしました。預言者イザヤは静まることを誰よりも強調した預言者でした。

「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。・・・に心を弱らせてはなりません。」(イザヤ7:4)
「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。しかし、あなたがたは、これを望まなかった。」(イザヤ30:15)

  • 上に掲げたイザヤの二つの聖書箇所には、「静かにする」という「シャーカト」שָׁקַטということばが共通しています。神の中に沈めてしまうという意味です。これは神への信頼がなければ決してできないことです。もしユダの王たちがダビデのように「静まる」霊性を身につけていたならば、国が破局に向かうことはなかったかもしれません。しかし現実は神へ身を沈め、身を隠すことをしなかったために、バビロン捕囚という破局を迎え、エルサレムの神殿が破壊されるだけでなく、多くの有能な人々が捕囚の身となったのです。
  • 「静まる」「静謐」のダビデの霊性は、ダビデの時代において多くの勝利をもたらし、理想的な神の王国を築き上げました。そのダビデの霊性はやがて神の御子イエス・キリストへとつながって行きます。「イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」(ルカ5:16)という記述をないがしろにしてはなりません。これが御子イエスのライフスタイルでした。御子のすべて(知恵と力と導き)の源泉は、静まりによる瞑想であり、御父との親しい交わりでした。そこからすべて目に見える事柄を神の視点から判断して生きるという生き方でした。
  • 現代のキリスト者は意識的にそこに立ち戻らなければならないと思うのです。イザヤの語った「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」というイスラエルの聖なる方の警告に耳を傾けなければならないと思うのです。瞑想の深みから瞑想のあふれへ。神の新しいわざがそこからはじまっていくと信じます。キリスト教歴史においていつもそうであったように・・・。

2011.7.27

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