瞑想Ps144/A
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瞑想Ps144/A
- 詩144篇の瞑想は、「主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を鍛えられる」というフレーズです。「手」「指」とは、弓を弾いたり、剣や盾を使う時に必用なものです。それらを主が鍛えられるとはどのようなことなのでしょうか。
- ダビデの生涯には多くの戦いがありましたが、いずれも性質の異なる戦いを余儀なくされました。たとえば、ペリシテ人のゴリアテとの戦いでは「万軍の主の御名によって」立ち向かい、サウルの追われる身となってからは油注がれた者に対して報復せずに主にゆだねるという戦いであり、敵との戦いでもかつて成功した方法に頼らず、その都度主に聞くという戦いであり、息子アブシャロムのクーデターに対してはその屈辱に甘んじるという戦いでした。しかし、いずれも共通することは、主に信頼して戦う戦いだということでした。それゆえダビデは常に「主が敵を自分たちの手に渡された」と考えていたようです。サムエル第一、30章23節参照。
- 詩144篇で告白されている主の御名のリストは次のとおりです。主は、私の
①「恵み」(口訳=岩、新共同訳=支え)
②「とりで」
③「やぐら」
④「救う方」(新共同訳=逃れ場)
⑤「盾」
⑥「身の避け所」
⑦「民を私に服させる方」(新共同訳=諸国の民を私に服させる方)
- これらの御名はすべて防衛に関するものです。これらはダビデが自分の小ささ、弱さを自覚させた御名でした。
- 戦いは、「防御の信仰」、「人間の弱さの自覚」のみならず、「攻撃の信仰」が必要です。ですからダビデは「いなずまを放って、彼らを散らし、あなたの矢を放って、彼らをかき乱してください」と祈っています。防御も攻撃もすべて主がしてくださる信仰が必要です。私たちには「神のことばと祈り」という武器が与えられています。
- 三つの部分からなるこの詩篇の最後の部分には、神を信じる者たちの祝福された様子が描かれています。具体的には、
①息子や娘たちの祝福(子孫繁栄)
②倉と羊の群れの祝福(生存と防衛の保障)