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瞑想Ps16/A

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瞑想Ps16/A

  • この16篇は、主を信頼することのすばらしさを私たちに確信させてくれます。その中から8節と9節を選びます。その中でも「主が私の右におられるので」というのを今朝の瞑想のキー・ワードとしたいと思います。8節でダビデはこう言っています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」と。ゆるぐことのない人生、それはだれもが願っていることだと思います。
  • 私はいつも、私の前に主を置く」とはどんな意味なのだろうか。それは、ただ単に、自分の意志とは関係なく、自分の前に存在しているということではないはずです。むしろ、ダビデ自身は、いつも、自覚的に、意識的に、自分の前に主を置いたことを意味しています。「私の前に主を置く」とは、自分の人生において神を計算に入れるということであり、自分の人生の方向と目的においても、神によって決定されることを自ら良しとすることを意味しています。また、自分は神によって創造され、神に愛され、神に救われ、自分の生涯は神のためにあるのだという明確な意識をもって生きようとする・・これが「主を私の前に置くこと」だと信じます。ダビデはそのことを自分の意志で選び取ったと言えます。
  • ところで、自分の人生に、神を計算に入れ、神にあって、神と共に、神のために生きることを選び取った者には、<ある特別な経験>が起こる、というのがダビデの証(あかし)です。その特別な経験とは、8節後半の「主が私の右におられる」という経験です。
  • キリスト教の結婚式では、花嫁が入場するとき、その花嫁の右側に父親が立って花嫁をエスコートします。そして花嫁の父は、途中から、花婿に花嫁を引き渡し、花婿は花嫁をエスコートしていきます。花嫁の父も花婿も、花嫁の右側に立っています。なぜ「右に」なのか。そのことを考えてみたい。
  • 「右に」とは、第一に、保護を意味します。覆いと言ってもいいかもしれません。花嫁にとって、右側に立って自分をエスコートしてくれる父親は、結婚するまで自分の覆いとなってくれた人です。そして新しい覆いとなってくれるべき花婿が、父親に代わって花嫁の右に立つのです。このように、「右におられる」ということは、自分の覆いとなって、自分を保護してくれる存在が自分の人生にいつもいるということなのです。安心を与えます。
  • ある兄弟が信仰を持つ契機となったのは、自分が仕事のストレスで倒れ、死に直面したことでした。彼が57歳の時でした。彼は実業家として、起業家として、次々と新しい会社を建てました。しかし人生の50代の後半で、死に直面し、これまで自分が一生懸命、力を尽くしてきたものが、すべて水泡に帰してしまうという不安と恐れを経験しました。そのとき彼はイエス・キリストに出会ったのです。おそらく、藁をもすがりたい気持ちではなかったかと思います。
  • 起業家、あるいはリーダーは常に孤独です。また多くの敵をもっていることがしばしばです。だれも最終的には助けてくれません。自分のひとつの決断でうまくいくかもしれないし、すべてを失うかもしれない、そんなリスクの高い立場にいるのがリーダーです。彼はそんな不安の中で主を求めました。その結果、病は奇蹟的にいやされて、それから35年間、実業家として生きられたのです。
  • 聖書では、神と私たちの関係が結婚する新郎新婦にたとえられます。その場合、花嫁は私たち、そしてその右に立たれる花婿は神を現わしています。自分の覆いを神とする者は、決して「ゆるがされない」とダビデは語っています。
  • さらに、「右に」ということばは、信頼を表わすことばでもあります。普通の場合、自分の右にだれかがいたとします。その場合、自分の右手は自由に動かすことができません。右手とは、敵からの攻撃に対して、それから守るために剣を取る戦いの手です。その右手が自由に動かせないということは、自分の右側にいる方は決して自分に害を加えないということを信じていることを表わしています。それどころか、右にいる方は、自分の左手で私をしっかりと保護しながら、向かってくる敵に対して、私に代わって戦ってくださるのだと信頼しています。いつも、どんなときにも、自分の「右腕」となってくれる存在を持つことは、私たちの人生に大きな安心感を与え、大きな力を引き出してくれます。たとえ、死という現実に直面したとしても、「絶対的な保護者」として、「信頼できるお方」として自分の右にいてくださると信じる者は、「こわいものなし」です。そのような人は、決して「ゆるがされない」のです。このことを実際に経験したダビデが私たちにそのことを証しているのです。

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