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瞑想Ps17/A

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瞑想Ps17/A

  • この詩篇の冒頭と最後の締めに出てくる「正しい訴え」という言葉をキー・ワードとしたいと思います。ダビデは「正しい訴えを聞いてください」と主に訴えています。彼の言う「正しい訴え」とはいったい何を意味するのか。そのことを考えてみたい。
  • 5節でダビデは「私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした」と。これまでの自分の主に対する信仰の姿勢を述べています。現代訳聖書(尾山訳)では「私は、あなたの御心に従い、確かな生き方をしてきました。」と訳しています。その点において、ダビデはどこを突かれても自信がありました。これまで妥協しない生き方を貫いてきた、という自負があったのです。しかしそうした神に信頼する生き方は常にリスクを伴います。なぜなら、自分の囲りには、それに敵対する誘惑に囲まれているからです。
  • 神によって選ばれた神の民イスラエルの存在目的は、自分の力に頼って生きるこの世の民とは全く異なる生き方をすることによって、つまり、神に依存することによって、神がこの世とは全く異なる「聖なる方」であることをこの世に示すことでした。イスラエルの民がエジプトから出て、荒野に導かれたということは、まさに神だけを当てにするという、人間的に見るならば、不安定な生き方を要求されます。それはリスクに満ちた世界です。そうした生き方を避けるための道はただ一つしかありません。それはエジプトに帰ることです。そこでは奴隷としての苦しい生活がありますが、食糧と安全が保障されていたからです。神に導かれて荒野に行くということは、私たちの基本的なニーズ、つまり敵からの防衛と生存の保障(食糧の供給)をただ神にのみ信頼するという世界に生きることを意味します。
  • 神が王として支配するイスラエルの民、特に、神の代理者として立てられたダビデはそのリスクに満ちた生き方を歩むべく要求されていました。その神の要求にダビデは答えて生きてきたのです。ですから、彼のいう「正しい訴え」とは、その流れの中で考えなければなりません。つまり、「正しい訴え」とは神との正しい関係を第一とすることによって、はじめて訴えることのできる神の保障への願いだと言えます。この願いは私たち人間の本来的な恐れのゆえに絶えずあるものです。ダビデの訴えの内容は、結局のところ、「主よ、約束どおり、私を守ってください」に尽きます。それがいろいろな表現に彩られて訴えられています。
  • 「あなたの奇しい恵みをお示しください。
    立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。
    私をひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。」(7~8節)
  • 「主よ。立ち上がってください。・・悪者から私のたましいを助け出してください。」(13節)
  • 神との関係を第一にするとき、神の恩寵が彼を覆うという信仰がダビデの祈りを支えています。これがダビデの「正しい訴え」と言えます。
  • 最後に15節を見ておきたいと思います。「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目覚めるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」(新改訳)この箇所を現代訳聖書(尾山訳)では「しかし、私は・・あなたとの正しい関係こそが第一で、あなたを仰ぎ見ることで心は満足します。」と訳されています。なかなか味わい深いものがあります。
  • 神との正しい関係、それは私に関する生存と防衛の保障を神のみに依存するという生き方です。それが神に「身を避ける」者の生き方です。神を信頼する者の生き方です。その点において、決して妥協しないで生きようと願ったダビデこそ、すべての時代を超えた、すべての信仰者の模範だと言えます。
  • 私も、主に、「正しい訴え」を聞いてくださいと言えるような神との関係を築いていきたいと願わされています。

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