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瞑想Ps17/B

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瞑想Ps17/B

  • 詩篇17篇の1節では、ダビデが、「正しい訴え」をもって自分を襲う悪者から助けてくれるよう神に祈っています。「正しい訴え」(但し、原文では「義」ツェデェク)とは、自分の側に非がないということです。にもかかわらず、自分のいのちをつけ狙おうとする敵(おそらくサウル王)によって、逃避行を余儀なくされたダビデ。嫉妬という非合法的な理由でダビデは荒野を10余年ほど放浪します。なぜ、神はこのことを許されるのか。これは、王として選ばれたダビデが神を信頼するための神のプログラムだと信じます。そのあかしとして最後の17節のことばは神への信頼に満ち満ちています。
  • ただ、17節の「しかし、私は正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目覚めるとき、あなたの御姿に満ち足るでしょう。」にある「正しい訴え」は、原文では「義によって」(ヴツェデェク)とあり、むしろ、「神との正しいかかわりをもって」と訳したほうが理解しやすく思います。自分を追い詰めようとする敵の存在にもかかわらず、何よりも神を第一にとして御顔を仰ぎ見る(ハーザー)とき、安眠の祝福と「満ち足りる心」を伴なう神への信頼の絆がより強められているダビデの姿を見ます。これが神がダビデをして放浪させた訓練の目的だと信じます。
  • いつの時代においても、神と神に油注がれた者に敵対する勢力は存在します。それはサタンが神と人との信頼関係を妬むからです。しかし、詩篇2篇で記されているように、「天の御座に着いておられる方は笑う」のです。つまり、神はものともされない、動じないのです。むしろ、神ご自身が自ら王を地上に立て、鉄の杖で敵を打ち砕かれるという構図がはっきりと示されています。私たちはこの構図の森の中に存在しています。このような構図を私たちがどれだけ信仰によって見ることができるかによって、神への信頼は深まり、強められると信じます。

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