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瞑想Ps18/C

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瞑想Ps18/C

前半(01~24節)のキーワード 

  • 主が私を喜びとされたから」(19節)

後半(25~50節)のキーワード 

  • あなたの謙遜は、私を大きくされます」(35節)
  • 詩篇18篇には、四つの「救出動詞」が使われています。
    ①「ハーラツ」חָלַץ(「助け出す」19節)
    ②「ナーツァル」נָצַל(「救い出す」17, 48節)
    ③「パーラト」פָּלַט(「助け出す」2, 43, 48節)
    ④「ヤーシャー」יָשַׁע(「救う」3, 27, 41, 46節)
  • こうした救出の根拠となっている原因は、「主が私を喜びとされたから」という意識です。これはとても重要なアイデンティティであり、この意識が希薄であるなら、このような結果をもたらさなかったかもしれません。自分が神によって愛されている存在の根幹が、私が主を呼び求めると、私は敵から救われる」(3節)という結果となってあらわれます。御父と御子との関係においても、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という御父の愛の声が、御子イエスの生涯を支えました。ダビデにしても然りです。ダビデという名は「愛される者」という意味ですが、まさにダビデをしてダビデたらしめているのは、自分の存在が神によって支えられ、愛されているという意識でした。その土壌からすべての良いものが生まれてきます。詩篇の瞑想の目的は、みことばの瞑想を通して、まさにその愛の土壌を豊かにしていくためのものです。
  • 詩篇18篇の後半では、「戦いのために」というフレーズが出てきます。ダビデの念願は主の家を建てること、神を礼拝するための神殿を建設することでした。しかし、神はそれをダビデにではなく、ダビデの子ソロモンにさせる計画でした。ダビデの時代的使命はイスラエルの周辺諸国との戦いを通して、神の国(支配)を拡大することでした。それゆえダビデの生涯は多くの戦いを余儀なくされました。その「戦いのために」、主が「私の手を鍛え」、「私の腕を青銅の弓を引けるようにされる」、「私に力を帯させる」(32, 39節)とダビデは告白しています。ダビデの勝利は実にめざましく、イスラエルの歴史において黄金時代を築きました。しかしここで重要なことは、ダビデが「あなたの謙遜は、私を大きくされる」(35節)と告白していることです。
  • 35節をいろいろな訳で見てみると・・
    「あなたの謙遜は、私を大きくされる。」(新改訳)
    「あなたは自ら降り、わたしを強い者としてくださる。」(新共同訳)
    「あなたの謙遜が、私を豊かにする。」(岩波訳)
    「あなたの謙りは、わたしを大いなる者とする。」(関根訳)
    「わたしを顧み、大いなる者とされた。」(フランシスコ会訳)
    「わたしを顧み、・・力ある者とされた。」(典礼訳)
  • 興味深いことに、フランシスコ会訳と典礼訳が、「謙遜」(名詞「アナーヴァー」עֲנָוָה)を意訳して動詞的に「顧み」と訳していることです。つまり、主の謙遜とは、この私を顧みてくださり、私を下から支えてくださるというふうに受け止めることができます。
    ちなみに、「謙遜】と訳された「アナーヴァー」עֲנָוָהは、旧約で7回、詩篇では2回(18:36/45:5)のみです。
  • 「大きくされる」(新改訳)と訳された「ラーヴァー」(רָבָה)は、本来、「増す、増し加わる、増える」という意味です。数や量、財、力、年齢、栄誉などが増し加わることで、「大きくされる」「大いなる者とさる」「強い者とされる」「豊かにされる」「力ある者とされる」ということになります。
  • 神の謙遜は御子イエス・キリストを明確に私たちに示されました。ピリピ2章には「キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に(恥辱の極みである)十字架の死にまでも従われ」ました。それゆえ、「神はキリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになった」のでした。

主は、私たちを高くするために、自ら、低くなられました。
主は、私たちを富む者とするために、自ら、貧しくなられました。
主は、私たちを強くするために、自ら、弱くなられました。
主は、私たちを豊かにするために、自ら、乏しくなられました。

  • これが神の謙遜(へりくだり)であり、この謙遜によって、私たちは支えられ、大いなる者、豊かな者、力ある者とされているのです。この恩寵を決して忘れなかったダビデこそ、イスラエルの理想的な王でした。これは一つの型です。ダビデが大いなる者とされたように、私たちもキリストの謙遜(支え)によって、そのような者とされる祝福が備えられているのです。

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