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瞑想Ps21/A

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瞑想Ps21/A

  • 詩20篇では、民が王のために主にとりなすという麗しい関係を味わいました。ダビデの時代はイスラエルの時代においては黄金時代であり、向かうところ敵なしといった最も力ある国が打ち立てられました。そこには、主と王の麗しい関係、また、王と民との麗しい関係が見られます。主と王との信頼関係も、また、王と民との信頼関係も一朝一夕にして作られることはありません。それは長い時間をかけながら、特に、苦しみという試練を共に通過することを通して築かれるものだと信じます。ダビデの王としてのリーダーシップと民の王に対するフォロアーシップ(Leadership & Followership)はその模範です。ダビデと彼を支えた人々は、ダビデが王の座に着く前から、長い間、荒野で共に生活し、その苦しみを共に味わった仲間でした。ダビデは彼らのフォロアーシップによって支えられたことは言うまでもありませんが、ダビデ自身も自分を選び、召してくださった主に対して信頼し、従順であったことがその土台にあります。
  • 21篇では、王のためのとりなしの祈りではなく、どこまでも主を信頼している自分たちの王の姿を見て、主に感謝と賛美をささげている詩篇です。主と王との麗しい信頼関係を喜び、主に感謝している民の姿がこの詩篇に見られます。「主よ。王はあなたの御力を喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。」(1節)
  • 私たちが主を礼拝することは義務でしょうか。もし義務と考えるなら、「今日も、礼拝を守れたことを感謝します」となります。以前の私の礼拝はそうしたものでした。しかし、義務ではなく、主を楽しむこと、主の救いを楽しむことこそ礼拝だと分かってからは、礼拝を守れたことを感謝しますという祈りは口から消えましたが、逆に、主の愛の歓迎を心から感謝し、主のふところに新たに入っていける喜びがあるかどうかが問われます。主を喜び、主の救いを楽しむ礼拝をささげることは、大きな影響を与える存在となります。ダビデ王がその模範です。そうしたダビデを知って、民たちはこう述べています。「まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。」(7節)と。
  • 7節を次のように訳したLB訳は趣があります。「王は主に拠り頼んでいるので、つまずいたり倒れたりすることは絶対にありません。あらゆる神々にまさる神様の不変の愛に、頼り切っているからです。」。「神様の不変の愛に、頼り切っている」とはなんとすばらしい表現でしょう。王ダビデがゆるがされないのは、ダビデ自身のなにかではなく、あくまでも神の不変の愛(Lord's constant love-TEV, the steadfast love-RSV, the loving-kindness―ASV)のゆえです。なぜダビデ王はゆるがされないのか、それを別の形で述べているのが、8~12節にかけての記述だと思います。8~12節が記されている意味は、戦いはあくまでも主がなされることであり、王とその民は主の戦いに参戦するものの、彼らは主の戦いの勝利の後始末をするということです。つまり、「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」(出エジプト記14章14節)とのメッセージが隠されているように思えます。
  • またこの詩篇21篇は、御父と御子、そして御子につながっている私たちのあるべき姿を指向していると信じます。御父と御子の関係、そのゆるがされない信頼関係にもっともっと目を向けるべきだと思わされます。御父の御子に対する愛とそのまなざし、御子の御父に対する愛と信頼、その関係の中に私たちは御子と御霊を通して招かれ、三位一体なる神の永遠のいのち(その親しい愛の交わり)を味わうものとされています。そのような救いを私は今日も楽しみます。そしてイスラエルの民が「あなたの御名があがめられますように」(13節)と祈ったように、私も「天の父よ、御名があがめられますように」と祈ります。

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