****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps22/A

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瞑想Ps22/A

  • これほどはっきりと二つに分かれている詩篇はないと思います。前半(1節~21節)の内容は嘆きであり、後半(22節~31節)の内容は賛美と感謝です。この詩篇は詩篇全体を代表する詩篇です。なぜなら、「嘆きから賛美へ」という詩篇の主題を最も鮮やかに示している詩篇だからです。きわめて味わい深い詩篇といえます。
  • この二つの部分をつないでいる連結の部分があります。それは21節の後半に「あなたは私に答えてくださいます」ということばです。NKJVでは、You have answered Me と訳されている部分です。この部分は私が知る限り、新改訳とLB訳、そして関根訳(岩波書店)、英語ではNKJV訳とASV訳(The American Standard Version)の他にはありません。しかしこの部分はとても重要な箇所だと信じます。「あなたは私に答えてくださいます」ということばだけを見るなら、それほど重要だとは思いません。しかし、この詩篇のコンテキスト(文脈)の中で見るとき、このことばの重みが伝わってきます。
  • その重みとは、人間の悩みの淵、だれも助ける者がいない孤独の中で、最も深い暗闇の中で発せられた神への信頼のことばだからです。このことばを契機に、作者の魂の暗闇に光が差し込み、嘆きから賛美に転換します。現状は変わらなくても、すでに作者の内に答えられたのです(過去完了)。
  • 1節の「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか。」という叫びは、決して絶望ではなく、暗闇の深淵の中にあっても信頼の絆はつながっていることばです。もし信頼の絆が切れているなら、このような叫びすらあげることはないはずです。人々から「そしられ、さげすまれ、あざけられ」ているだけでなく、死に至る迫害を受けています。ある者たちは無関心です。周りからの拒絶という苦しみに加えて、神も沈黙しているという苦しみの中に作者は置かれています。そこで作者は沈黙の中で信仰の先輩たちの通ってきた道を思い起こします。それが4節、5節です。
  • 信仰の先輩たちが神に信頼したこと、そして神がその信頼の叫びに答えて彼らを助け出されたことを思い起こします。また、9節、10節では、自分がなにゆえに存在するのか、そのルーツ(目的)にも思いを寄せています。しかし作者は神の沈黙(不在感)がもたらす苦しみと、人々から完全に拒絶されることの恐れの中で、神に「主よ。・・私の力よ、急いで私を助け出してください。私を救ってください」と懇願しているのです。
  • この詩篇22篇の多くの箇所がイエスの受難の出来事の中で引用されています。特にマタイは、イエスの受難を描くのにこの詩篇22篇からいくつかの節を引用しています(1節、7節、8節、18節)。その意味でこの詩篇はメシア的詩篇と言えます。イエスが十字架につけられたのは朝の9時でした。そして、イエスの口から出てきた最初のことばは「父よ。彼らをお赦しください。」でした。その後、共に十字架につけられた強盗の一人に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と語り、「女の方、そこにあなたの息子(ヨハネのこと)がいます」と自分の母マリアのことを思いやる余裕がありました。なぜなら、人々(自分の弟子たち、指導者たち、民衆、そしてローマの兵士たちに代表される異国人)の完璧な拒絶に直面しながらも、イエスの目は常に御父に向けられていました。
  • ところが正午になって、辺りは暗闇で覆われました。これまでに経験したことのないことがイエスの身に起こりました。それは私たちの想像を越えた恐ろしい経験です。そして3時間後、イエスののどは渇き、死ぬ一歩手前まで来た時、イエスは叫んだのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と。そして最後に、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言って息を引き取りました。この最後の祈り「父よ。わが霊を御手にゆだねます」ということばに、詩22篇の「あなたは私に答えてくださいます。」(21節)が隠されていると私は信じます。信仰による確信のゆえに神への賛美が内包されています。それが22節以降の部分です。
  • もうひとつ、22節がヘブル人への手紙の2章で引用されている点を見逃せません。なぜなら、そこには主が彼らを自分の兄弟と呼ぶことを恥としないでこう言われますと記されており、詩篇22篇22節のことばが引用されているからです。「わたしは御名を、わたし兄弟たちに告げよう。教会(詩篇では「会衆(カーハル)」)の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」と(ヘブル2章12節)。
  • イエスの目的は御父の御名を告げ知らせることでした。その御名とは、信頼する者を決して見捨てることはしないという御父ご自身のことです。どんな状況の中に置かれたとしても、たとえそれが死の谷を過ぎることであったとしても、御父を信頼することこそ愛であり、いのちであることを示すことでした。神に敵対するサタンはその信頼の絆をなんとか断ち切ろうと計りましたができませんでした。御父は御子を死から復活させることによって、そのいのちを回復し、ご自身の計画とみこころを実現されたのです。
  • ヘブル人への手紙2章9節と10節にこう記されています。「・・・イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことだったのです。」と。まさに、神への信頼は苦しみの中で試され、磨かれ、完成することを教えています。
  • 私たちが人生で経験するすべての苦しみの目的は、神への信頼の絆を強めることにあることを信じます。エジプトから救い出されて荒野に導かれたイスラエルの民、ダビデの荒野での放浪、バビロン捕囚という苦渋の経験、そして十字架という完璧な拒絶を受けられたイエス、そして使徒たちの苦難・・・それらのすべては神との信頼のいのちをあかしするためのものであったことを知るとき、私たちはなんと励まされることでしょう。苦しみの極みの中で、信頼の極みを貫いて下ったイエスによって、私たちは神との信頼の絆を築くことができるのです。どんなに賛美しても賛美しきれません。ただ感謝するのみです。

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