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瞑想Ps23/A

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瞑想Ps23/A

  • この詩篇は珠玉の詩篇といわれるほど、多くの人々がこの詩篇によって励まされ、いやされ、力づけられてきました。どの節をとっても、それだけで十分なほどの瞑想の材料になり得ます。この詩篇の瞑想を通してもたらされた多くの書籍が出版されているのもうなずけます。
  • 「主は私の羊飼い」はじまるこの詩篇は、嘆願も、戒めも一切ありません。1節1節が、神がどのようなお方であり、何をしてくださったか(あるいはしてくださっているか)、その祝福の豊かさが告白されています。しかもこの詩篇には、「主」ということばが4回、途中から「あなた」に代って3回、そして「私」ということばに至っては何と15回にも及んでいます。「イエスは神です」というのと、「イエスは私の神です」というのとでは雲泥の差があります。「私を愛し」「私を探し出し」「私を救い」「私を養い」「私を守り」「「私を導き」「私の世話をし」「私を力づけ」てくださる「私の神」、この事実を、どこまでも私事として知ること(経験すること)、これこそ最も重要なことです。これが信仰告白といわれるものです。その意味で、この詩篇は、「あなたにとって、あなたの神とはどのような方か?」との問いを突きつけられます。
  • 私は、この詩篇から、羊飼いと羊の関係であらわされる前半の部分(1~4節)ではなく、自分の食卓に招く主人と客人の関係であらわされる後半の部分(5節)に焦点を当てて瞑想したいと思います。後半の部分の主題は「神の歓迎」(Welcome Home)です。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。」
    (5節a)
  • 食卓に招かれるということはユダヤの世界では最高のもてなしです。彼らは心に一物のある者とは決して食事をすることはないからです。食卓に招くことは相手に対する親密さを表わし、招く客人に対して最大級の好意をもって歓迎していることのしるしです。ダビデが神をこのようなアナロジーで表現したことは妙を得ていると思います。また、「頭に油を注ぐ」ことも、歓迎の好意を表わすものです。ですから、歓迎されていない客の場合には、このもてなしは省略されたようです。
  • ルカの福音書7章36~50節にしるされているひとり罪深い女がパリサイ人シモンの家でしたことを思い起こしましょう。イエスは自分を招いたシモンに向かってこう言いました。「あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。」と。当時、香油はとても高価なものでした。その高価な香油を招待した客人のために、惜しげもなく注ぐことは、愛と尊敬を表わすものです。ダビデは「主は、私の頭に油を注いでくださる」と告白しています。ダビデは、生涯にわたってこの神の特別な歓迎を経験した人でした。この神の歓迎は私たちの想像をはるかに越えています。歴史の中で、偉大な働きをした神のしもべたちはみなこの神の歓迎の油を注がれた者たちです。神の歓迎を信じる者は幸いです。
  • さて、この詩篇のキー・ワードは最後の6節です。神の惜しみない歓迎、極めがたい祝福を味わっていく中で、ダビデは感激を込めてこう述べています。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが私を追って来るでしょう。私は、いつまでも主の家に住まいましょう。」と。「主のいつくしみと恵みとが、私のいのちの日の限り追って来る」生涯、そんな歩みが保障されている生涯に思いを馳せながら、それに対するダビデの主に対する誓いこそ、この詩篇の結論だと信じます。その結論とは、とこしえに主の家に住みます、という誓いです。NKJVでは、I will dwell in the house of the Lord forever となっており、ダビデの強い意志が感じられます。
  • 「主の家に住むこと」、このライフスタイルを築くことこそダビデの目指したことでした。この詩篇瞑想の旅の目的はまさにこのことであると思います。毎日の主の交わりの中でこうした誓いが継続できるように、いつも主ご自身を見上げていく者となりたいのです。

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