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瞑想Ps25/A

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瞑想Ps25/A

  • 2節と3節で「恥」ということばが3回出てきます。さらに20節にも出てきます。この「恥」ということば詩篇の中に数多くありますが、このことばはしばしば「信頼」「待望」と一緒になって使われています。20、21節を参照。ひとつ前の詩篇、詩22篇の4、5節を見てみましょう。「私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。」とあります。
  • 「恥じを見ない」とは、失望しない、失望させられない、失望に終わらない、失望落胆しないという意味です。
  • ルカの福音書24章に、エルサレムからエマオとい村に帰っていく二人の弟子たちの姿があります。そこに復活したイエスが彼らとともに道をあるいておられたのですが、「彼らの目はさえぎられていて、イエスだとは分からなかった」と記されています。彼らは、エルサレムで起こったイエスの受難と十字架の出来事について話し合いながら、自分たちの村に帰っていく途中でした。イエスは彼らに尋ねます。「歩きながらふたりで話し合っているその話は何のことですか。」と。するとふたりは「暗い顔つきになって」立ち止まって言いました。「エルサレムにいながら、近頃そこで起こったことをあなただけが知らなかったのですか。」と。「どんなことですか」とイエスは聞きます。するとふたりは答えました。「ナザレのイエスのことですよ。この方は信じられないような奇蹟をいくつもなさった方で、すばらしい教師でもあったのですが、指導者たちは理不尽にも、この方をつかまえて、ローマ政府に引渡し、なんと十字架につけてしまったのです。私たちはこの方こそ、イスラエルを救ってくださるに違いないと、望みをかけていました。」・・・それなのに、その望みは失望に終わったと述べているのです。この失望に終わることを「恥を見る」というのです。望みをかけていたイエスが甦られて、彼らとともに道を歩いて話している相手であるにもかかわらず。彼らの目がさえぎられていたからです。
  • 主が語られたことを信じない者は、このふたりのように「失望する」のです。「恥を見る」のです。しかし、主を信頼する者は失望させられることはありません。ペテロの手紙第一2章4節、6節を見ましょう。「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。・・なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(新改訳)とあります。ちなみに、上記のみことばはイザヤ書28章16節のみことばの引用ですが、ペテロだけでなく、実はパウロも引用しています。二人ともこのイザヤ書のみことばがお気に入りだったようです。そして、おもしろいことに微妙にその訳が変化しています。ペテロの場合には、「選ばれた石、尊い礎石(これは隅のかしら石のこと)」となっていますが、パウロが引用した最初のローマ書9章33節では「つまずきの石、妨げの石」となっています。もともとの箇所にしるされているイザヤ28章16節では「試みを経た石」と預言されています。しかしいずれにしても、この神が選ばれた石、多くの試みを経て試され抜かれた石が、多くの人にとってつまずきの石、妨げの石ともなる。しかしこの石である方に信頼する者は、決して失望させられることがない、ということをパウロもペテロも同じく告白しているのです。
  • 自分の夫に、自分の妻に、自分の子どもに、自分の親に、あの人この人に期待していたのに、こうしてくれると思っていたのに・・と失望してしまうことはないだろうか。主に期待せずに人に期待するとき、私たちは失望し、恥を見ることになります。しかし、その人と出会わせてくれた主に、かかわりを与えてくださった主に信頼するなら、全く違った見方ができるようになると信じます。
  • しかし、私も決して完全に主を信頼できるわけではありません。時にはゆだねることができずに苦しむことがあります。信頼したいけど、信頼できずにいる自分がいます。ダビデも同じようなところを通ったのではないでしょうか。7節、11節を見ると。
    「私の若い時の罪やそむきを覚えないでください。あなたの恵みによって、私を覚えてください。」
    「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を」
  • ここでダビデが言っている罪、そむき、咎とはすべて、主を信頼しない罪です。主を信頼しないことは、子どもが親に対して、ぼく(わたし)はあなたを信頼していないというようなもので、その態度やことばはどんなに親の心を痛めることでしょうか。けっして小さなことではありません。大きな、深い罪です。人を殺したとか、人のものを盗んだということ以上に、神に対する最も大きな深い罪です。このことをダビデは自覚して祈っているのです。
  • 同じ罪が私のうちにもあります。今朝、私はダビデのように祈ります。「主よ。あなたを信頼しなかった私の咎(罪)をお赦しください。大きな咎(罪)を。そして今、私は決して失望させられることのない主に信頼します。」と。

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