****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps28/A

Ⅰ/A(1~41篇) | テキストPs28 | 原典テキストPs28 | 瞑想Ps28/B | 礼拝用語Ps28 | 恩寵用語Ps28 | Ps28の修辞 |

瞑想Ps28/A

  • 「主よ。私はあなたに呼ばわります。」(1節)ダビデは主に向かって助けを呼び求めています。私たちが助けを必要としているとき、だれに呼び求めるかはとても重要なことです。神が存在しておられることを信じていても、いざというときに信頼する相手が神ではなく、人であったりすることが多いものです。あるいはお金という人も多いのではないかと思います。
  • ダビデは「私は『あなたに』呼ばわります」と言っています。この一文に、「私は、ただ神であるあなたに祈ります。」というダビデの固い意志を感じさせます。「私とあなた」、「汝と我」、この関係を深めるのは危険や苦難や困難の中においてです。何もない平穏なとき、何もかもうまく行っているときには、この関係はそれほど強いものとはなりません。叫ばざるを得ない状況のただ中で、「私とあなた」の関係が問われるのです。ダビデは心から神に祈り叫びました。この経験が大切です。そして6節「ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。」、「私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。」(7節)と告白しています。そこで終わりません。「それゆえ、私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。(I will praise)」(7節)と誓っているのです。
  • ダビデは、こおどりするほどの喜びではなく、実際にこおどりして喜んだのです。単に心の問題として喜ぶだけでなく、体をもって喜びを表わしたと私は信じます。「こおどりして喜ぶ」というのは、ある種の踊りを伴った喜びの表現です。ある人はこれをすずめ踊りと言いました。詩篇にはこのように体をもって主を賛美するように招いています。例えば、「手を叩いて」「手を上げて」「びさまづいて」「踊りをもって」・・・など。
  • 日本人は他の民族に比べて、感情表現が不得手と言われます。私もどちらかというとそうです。どうしてなのか分かりません。民族性なのでしょうか。日本人特有の人と人との関係における知恵がそうさせるのでしょうか。手放しで喜ぶことは、ある人にとっては妬みを引き起こします。そうした心配から、人の前で喜びを素直に表現できないのかもしれません。それは「恐れ」から来ているのかも知れませんが、ある意味では、長い間に築かれてきた日本人の知恵なのかもしれません。
  • こおどりするような、すずめ踊りを伴う喜びでなくても、心の中にわきあがる喜びがあるならば、あるひとつの表現形態にとらわれることなく、それを素直に表出すべきです。日本人の弱さとして、同じような表現形態をとらないと「いけない」という恐れから、付和雷同してしまわないように心しなければなりません。自分なりの表現形態があってもいいのだ、と思うことです。とはいえ、具体的にとなると容易なことではないのですが・・・・。
  • ダビデが王となったとき、最初にしたことは、神の臨在を象徴する「契約の箱」をエルサレムに持ち運ぶことでした。そのとき彼がしたことは、民とともに、歌を歌い、楽器を弾き鳴らして、「主の前で力の限り喜び歌った」ことでした(サムエル第二、6章5節)。これはダビデが喜びのあまり歌っただけではありません。彼は喜んで踊ったのです。その証拠に、ダビデの妻ミカルはダビデが「主の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。」(16節)とあります。ダビデは王としての服も脱ぎ捨てて、恥ずかしげもなく裸になって喜び踊ったのです。民たちが王の真似をしたとは書かれてはおりません。それはダビデの喜びの表現でした。ですから、私たちも自分なりの喜びのスタイルを持つことが大切です。ただし、それが他の人から受け入れられるとは限らないということを知りつつ・・。
  • 実は、私も、主に対するダビデのように、自由で、主体的で、個性的な表現ができるような者となりたいのです。ダビデに対する私のあこがれはそうしたところにあるのかもしれません。しかしそれは、形そのものではなく、内側から湧き起こってくるもの、いのちあるものでなければなりません。神との生きた交わりだけがそれをもたらすと信じます。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional