瞑想Ps31/A
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瞑想Ps31/A
- 詩篇31篇は類型的には嘆きの詩篇です。特に9節~13節は嘆願のみですが、深刻な苦しみの状況を訴えています。身も心も衰弱して、こわれた器のようです。こわれた器とは無用な存在という意味です。周囲の者すべてが反対者となり、非難、忘却、拒絶、裏切り、陰謀の中にあってだれも自分を支えてくれる者がいないという四面楚歌の状態、八方塞りの状況を嘆き、その窮状が訴えられています。まさに「包囲された町」(21節)のような状況です。
- たとえクリスチャンであっても、孤独感、空虚感、失望落胆、重い抑圧状態の中に置かれることがあります。特に主に愛される者はこうした経験を必ず通っていきます。この経験は選択科目ではなく必修科目です。なぜなら、こうした経験の中で神との親しい交わりを体験するからです。そうした状況では主のための働きから切り離されます。ある種の活動から身を引くように導かれます。自発的な場合もありますし、強制的にそうなる場合もあります。いずれにしてもその経験の目的はただひとつです。それは主を知り、主のいつくしみに触れるためなのです。ここに苦しみの意義があります。ですから、この詩篇の瞑想のキー・ワードは19節、「あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう」としたいと思います。この気づきこそ、嘆きの詩篇の真髄だと信じます。
- 新改訳聖書では「いつくしみ」の訳語は、他の聖書では「恵み」(口語、新共同訳)と訳されています。英語では goodness, the goodと訳されています。21節には「ほむべきかな、主。主は包囲された町の中で、私に奇しい恵みを施されました。」とありますが、「いつくしみ」と「奇しい恵み」とは同じ内容のものと考えてよいでしょう。驚くばかりのいつくしみは「変わることのない愛」を意味します。人間の側の不真実にも関わらず、神は変わらずに私たちを愛し続けてくださる不変の愛、その愛が私にも注がれているのです。「私に」とダビデは言っていますが、この「私に」(for me)と気づく者は幸いです。しかしダビデは心の中で不信仰にも「私はあなたの目の前から断たれたのだ。」と言ってしまいました(22節)。ここをLB訳では「『神様に見捨てられた』と口走った私でしたが、やはり早合点でした。」と訳しています。これはだれもが経験するところです。
- イスラエルの民は、自分たちの罪のゆえにバビロン捕囚という憂き目を味わいました。それは神の民にとってきわめて悲惨な事態をもたらしました。預言者エレミヤはその現状を嘆き、哀歌としてまとめました。そして捕囚に連れて行かれる民に神の慰めのメッセージを書いたのです。それがエレミヤ哀歌3章21節~33節に記されています。ここはとても励ましを受けるところです。LB訳で見てみましょう。
- 「しかし、ただ一つの望みが残っています。神様のあわれみは決してすたれない、ということです。 私たちが全滅しなかったのは、神様のあわれみのおかげです。神様の真実は限りなく、その恵みは朝ごとに新しくなります。神様こそ私の分け前なので、私は神様に望みを置きます。神様は、ご自分を待ち望む者、ご自分を求める者に、とてもよくしてくださいます。神様の救いだけに望みを置いて、静かに待つのはよいことです。若い時にきびしくしつけられるのはよいことです。なぜなら、その人は神様からご命令があった時、まず静かに受け止めて考え、顔をうつむけてへりくだります。 そして希望を見いだすようになるでしょう。その人は、自分を打つ者にもう一方の頬を向け、侮辱をぞんぶんに受ければいいのです。神様がいつまでもお見捨てになるはずはありません。たとい、彼に悩みを与える場合でも、恵み深いお方ですから、忘れずにあわれみをかけてくださるはずです。神様は好んで人を苦しませ、悲しませたりなさいません。」と。
- 特に、哀歌3章25節、26節、27節には、それぞれヘブル語で「トーブ」、つまり「良い」ということばが使われています(25節ではそれが「いつくしみ深い」と訳されていますが、とても良いことをしてくださいますという意味です)。なぜ「良い」のでしょうか。それは33節「主は、人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは思っておられない」からです。捕囚の苦しみは、イスラエルの民の失敗、そむきの罪によってもたらされたものでした。しかし主はそのゆたかな恵みによって憐れんでくださるのです。ここに一縷の望みがあります。見捨てられることはないからです。そしてダビデのように「あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう」と告白する民となったのです。
- 自分の失敗ではなくても、八方塞がりに置かれることがあります。それはかなり精神的に追い詰められることになります。それはまさに、その人の人生の「夜」の経験と言えます。
- 使徒の働きにはパウロの生涯が描かれていますが、そのパウロの生涯で特筆すべき三つの「夜」があったことをルカは記しています。
①16章9節の「ある夜」・・八方塞りの中にあった夜です。
②18章9節の「ある夜」・・様々な問題―特に、恐れーの中に置かれていた夜です。
③23章11節の「その夜」・・もうパウロの働きはエルサレム止まりかと思われた夜です。
- それぞれの「夜」にパウロは主の御声を聞いたのです。パウロにとっての「夜」は、神の計画における新しいことの始まりでした。次のステップに行くための大切な「夜」だったのです。ルカはパウロの生涯における「夜」の重要性を見逃しませんでした。それは神のいつくしみ、神がいかに良い方であるかをやがてあかしさせるためです。
- もしあなたが、その「夜」を通っておられるなら、まさにそれは神の時です。新しいことが備えられているときであることを信じましょう。「今が大切な時です。」まさに人生の「夜」とは、
①新しいことのために、大切なことが「たくわえられ」「備えられている」ときです。
②神のふところに深く隠される時です。様々な活動から切り離され、神のおられるひそかな所にかくまわれる時です。
③これまで経験してきたことをはるかに越えた神との親しい交わりへと引き寄せられる時です。
④新しい歌の種が懐妊する時です。
- それゆえ、主の御顔を仰ぎ、主を待ち望みながら、「雄々しくあれ、心を強くせよ」と自分の魂に向かって語りかけなければなりません。