****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps38/A

Ⅰ/A(1~41篇) | テキストPs38 | 原典テキストPs38 | 瞑想Ps38/B | 礼拝用語Ps38 | Ps38その他 |

瞑想Ps38/A

  • この詩篇は完璧な嘆きの詩篇です。しかし、その嘆きの中でダビデは沈黙へと押しやられ、そこから神を待ち望むというところへ到達しています。この詩篇のキー・ワードは14節と15節です。「まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。」
  • このキー・ワードは、近親の者が完全に自分から離れ、また自分を痛め、おとしめようとしている敵のさまざまな脅しの声にも反応せず、黙りこくっています。ダビデは周囲の者にも、また自分に敵対する者にも、完全に沈黙し、神にのみ信頼して、神の助けを待ち望んだのです。これはすばらしい信仰者の姿だと思います。ただ、神に対しては、自分の心にあるすべての鬱積した感情を訴えています。9節がそのことを示しています。「主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。」とあります。「私の願い」とは「健康な体に戻りたいという強い願い」のことです。その願いをもたらす背景にある鬱積した感情のすべてをダビデは神の前に吐き出しています。
  • 吐き出すことのできる存在がいることはなんとすばらしいことでしょうか。もし、これが人に向けられるとき、必ずしも受け止められるとは限りません。むしろかえって傷つけられることがあります。だれにも言えない苦しみ、孤独の苦悩、喪失の痛み・・・これを受け止めてくれる存在が神であることを述べたのが9節です。この詩篇には、神に感謝することばや賛美することばはありませんが、神だけを信頼することで、大きな希望への道を開いています。
  • 沈黙すること、静まること、沈静することと神を待ち望むことは、密接な関係があります。なぜなら沈静はそれ自体で自分が無力であることを告白しているからです。それは神が最も良しとされる時に、助けを携えて来てくださるという信仰の告白的行為だからです。すべての友人、すべての働き、すべての楽しみから離れて、神の御前に沈黙の時を持つことは良いことなのです。
  • 聖書の中では、しばしば沈黙と待望がセットになっている箇所があります。たとえば、
    ①「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。」(イザヤ書7章4節)
    ②「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』」(イザヤ書30章15節)
    ③「主の救いを黙って待つのは良い。」(哀歌3章26節)
  • これらのメッセージは意味深いと信じます。なぜなら、私たちの多くは、沈黙して神を待つことを望まないからです。そのために神の出番がなくなります。神を待ち望む者はだれでも「黙って」、「静かに」することを学ばなければならないのです。もし私たちが神の前に静まって信頼するならば、力を得ると神は約束しておられます。その力とは、耐え抜く力、状況に支配されない力、神を信じる信頼の力を意味します。そんな沈静の態度を身につける者となりたいものです。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional