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瞑想Ps39/A

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瞑想Ps39/A

  • 詩38篇では、沈黙することと神を待ち望むこととの間には深いつながりがあることを瞑想しました。しかしそれは決して容易なことではないことを詩39篇で知ることができます。詩39篇の作者は気をつけて、自分の舌と口で罪を犯さないように、つまり不平不満、つぶやき、思い煩いを口に出さないようにと決心していました。特に、神に逆らう者たちのいる前ではそうしようと堅く決心していたのです。それは、彼らに恰好の非難を与えないためです。
  • しかし、作者は自ら置いた禁を破ることになります。「私はひたらす沈黙を守った。・・それで私の痛みは激しくなった。私の心は私のうちで熱くなり、私がうめく間に、火は燃え上がった。そこで私は自分の舌で、こう言った。」(2、3節)とあります。あまりにも心が苦しくなって、沈黙することが出来なかったことを記しています。沈黙に耐えることができなかった作者の心の苦しみとは何であったのか、これが詩39篇の瞑想のテーマです。
  • この詩39篇には、「はかない」(4節)、「むなしい」(5節,11節)、「むなしく」(6節)ということばが目に付きます。自分の存在が束の間の存在、無に等しい存在のように感じています。神信頼の中にも心は完全に虚無感で支配されています。そして11節では、「あなたは・・その人の望むものを、しみが食うように、なくしてしまわれます。」とあります。「人の望むもの」(新改訳)とは、「慕い喜ぶもの」(口語訳)、「人の欲望」(新共同訳)、「彼の持つ宝」(A・ヴァイザー/ATD)のことです。こうした自分にとって大切にしていたものが、容赦なく剥ぎ取られていくことに対して、作者ははかなさと空しさを感じています。神を信頼しながらも、移ろい行くこの世の宝になおも拠り所を求めようとする自分の心との葛藤に悩んでいる姿があります。
  • 私たちも、頭では神第一と思いながらも、大切にしてきた人との関係や、頑張って得た自分の宝といえるものを失っていくとき、なんとも言えない寂しさと空しさを経験するのではないだろうか。たとえば、人が老人になって、今まで自分をしっかりと支えてきた働きや立場や信頼といったものが喪失したり、それまで出来ていたことが出来なくなっていくという経験をするとき、なんとも言えない焦燥感のゆえに、不安と怒りをあらわにすることがあるのです。神を信頼して生きている人であっても、襲ってくる虚無感、これは体験したものでなければ理解できないことかもしれません。頭での理解と心での理解が必ずしも同時進行ではないことを知らされることがあるのです。このこと自体も空しさに拍車をかけます。
  • 詩39篇の作者は、そんな人生の空しさの中で語った一言は重みがあります。それは7節です。「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。」。楽観的な人でもこうした信仰告白をするでしょう。しかし深い虚無感の中から出るこの告白は数段の重みがあります。
  • この詩篇の中でもうひとつ大切な表現に触れておきたいと思います。それは12節にある「私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。」という自己認識です。詩篇の中ではこうした「私は・・・です。」という形で表現される自己認識は決して多くはありません。それだけに貴重な自己認識の例と言えます。
  • 「私は・・旅人です。私は・・寄留の者です。」という認識とは、どんな認識でしょう。それは、いずれも、自分が身を寄せる相手方の好意とあわれみに頼る者でしかないという自己認識です。人生の虚無を経験しながらも、より深められた神への信頼への旅、これこそ神の民たちが瞑想してきた人生の実りと言えます。私もそうした旅へと、今日も神によって導かれていることを信じて歩みたいと思います。。

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