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瞑想Ps41/A

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瞑想Ps41/A

  • 「幸いなことよ」で始まる1~3節までのフレーズは、「人称なき存在」(=聖霊)の声です。新改訳、新共同訳も「、「~しないでください」とか、「~してくださるように」という嘆願に訳されていますが、原文では、「主は・・(彼に)・・・してくださる」という格言的な表現となっています。関根訳はそのように訳しています。

    1 聖歌隊の指揮者に、ダビデの歌。
    2 その言葉を慎しむ者に幸あれ。災いの日にヤハウェは彼を救われる。
    3 ヤハウェは彼を守り、彼を生かし、この地にあって彼を幸いなものとし、彼をその敵の心のままにわたし給わない。
    4 ヤハウェは彼を病の床で助け、その病床で支持を与え、その病気から回復させる。


    ●関根氏が「そのことばを慎む者に幸あれ」と訳しているのは、「ダール」(דָּל)というヘブル語には「弱々しい、貧しい」という意味の他に、「くちびるの戸」「くちびる」という意味があるからです。関根氏は「言葉に対して賢くある者」が幸いだと解釈しています。新改訳は「弱った者に対して心を配ることのできる賢い者」こそ幸いだとしています。

    ●「賢い者」「心を配る者」と訳された「マスキール」(מַשְׂכִּיל)は、動詞「サーハル」(שָׂכַל)の分詞で男性単数形です。使役態(ヒフィール)で「悟る、賢い、思慮がある」という意味を持っています。

    ちなみに、この「サーハル」はヤコブがヨセフの二人の息子に手を置いて祝福する際、手を「交差して置きました」(創世記48:14)。ヤコブにとってそのことが神のご計画においてふさわしいと悟ったからです。弟の「エフライム」は神にとって重要な役割を果たすことになるのです。

    【新改訳改訂第3版】創世記48章13~14節
    13 それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。
    14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。

  • 詩篇にしばしば登場する「人称なき存在」は、格言的な表現によって、私たちの内なる霊を励まし、主への信頼を建て上げさせようとしてくれます。
  • 1~3節の「人称なき存在」の格言は、4節以降の自分の経験に裏づけされています。私は、この詩篇のキー・ワードを「主よ。立ち上がらせてください。rise up me!! )」としたいと思います。この嘆願は、深い淵からの叫びであり、一縷の望みを神に抱く者の再起への祈りだからです。
  • A・ヴァイザーという人は、詩篇第一巻(1~41篇)の主要テーマは『悟り』だとしています。これは卓見だと思います。何が「幸いなことか」を悟ること、最も大切なことは何かを悟ること、その悟りは知識によって得ることはできません。神への信仰によって、深い淵から神の恵みの高嶺に引き上げられるという経験を通して開かれる悟りです。人間の知恵に基づくものではありません。神の知恵に基づく悟り、気づき、なのです。そうした悟りは、詩篇ばかりではなく、詩篇と同じ部類にある「ヨブ記、箴言、伝道者の書、雅歌」のテーマだと私は考えます。
  • 詩41篇の作者(ダビデ)は病の中にいます。旧約聖書の時代では、病気は罪のゆえだと考えられていました。病は、たたり、呪い、邪悪なものが取り付いている結果だと考えられていました。今日でもそのように考えている人は少なくありません。病は、その人自身にとっても、またその周辺の人々にとっても様々な変化をもたらします。
  • その変化の第一はそれまで支えとしてきた大切なものの喪失です。例えば、健康、働き、役職などが失われます。生きる気力(精気)さえも失います。人との関わりも薄くなり、縁遠くなり、やがて自分は忘れ去られてしまうという恐れを抱かせます。そのため空しさや虚無感が襲います。
  • 第二の変化は、病は自分に関わりのある人々の心の諸相を照らし出します。自分を見舞う者の心とは裏腹の慰め、もう再起不能だという決め付けや裏切りなど、それによって心は傷つけられます。周囲の人々の本当の心が映し出されます。それは病の中にある者にとってとても辛いことです。不安と孤独感が襲います。
  • しかし第三の変化は、そのことでむしろ神への信仰が増し加えられます。本当の支えとは何かを、本当のしあわせとは何かを悟るようになります。神の支え、神のいやし、あわれみなしには自分は生きられない存在であることを悟るようになります。そして、神にあって、再起への期待が高まります。精気を信仰によって呼び覚まされます。再起することで、神が自分を愛しておられることを確認しようとします。こうしたプロセスは、深い淵をも神が包み込んでくださるということを知る機会となります。新たな信仰の飛躍が起こります。10節の「しかし、主よ。」は大いなる信仰の転換を意味します。この転換を産み出させるのも、神が作者を包み込んでくださっているからに他なりません。
  • そして第四は、病は弱い者との<連帯>を生み出します。自分が病気になる前には、そうした弱い者の存在には関心がなかった人でも、病気の中で人間のさまざまな面を見せられる辛い経験を通して、はじめて弱い者との連帯が生まれるのです。1節の「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は、主はわざわいの火にその人を助け出される」とあります。病を通して知る、自分の弱さ、信頼していると思っていた人からの裏切り、人間の醜さ、・・そうしたすべてを病は見せてくれます。そのことで悲しみを知る者となります。そして弱い者に気を配り、思いやる心、親切な心を持つようになります。それは神の心そのものです。
  • イエス・キリストは、まさに悲しみを知る方でした。その方がこう言われました。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイの福音書5章4節)と。使徒パウロも慰めの神をほめたたえてこう言っています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。・・その慰めは・・・苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えます。」 (Ⅱコリント1章4節、6節)
  • 人からではなく、神から来る慰め、その慰めはあらゆる「苦難に耐え抜く力」です。生きる気力の喪失、人からの疎外、決めつけ、断罪による隔てを経験するかもしれません。しかし、どんな苦難の中にあっても、神は私たちを必ずや再起させてくださいます。なぜなら、神の慰めが私たちを覆うからです。それゆえ、「主よ。私を立ち上がらせてください」、「私を再起させてください」と祈ります。

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