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瞑想Ps42/A

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瞑想Ps42/A

  • この詩篇のキー・ワードを2節「わたしのたましいは、神を生ける神を求めて、渇いています。」としたいと思います。その理由は、詩篇の中ではじめて「渇く」ということばが登場するからです。この「渇く」という経験は、人間の内にある最も深いニーズと関係しています。
  • 「鹿のように(As the deer)」で知られる有名な賛美歌がありますが、その歌詞は詩42篇から取られています。もともとこの賛美歌は失恋の経験を通して作られたと言われています。失恋の経験をしたことがある人ならだれでも、それがどんなに心打ちひしがれることであるかを知っています。慕う心が強ければ強いほど、その痛みは増し加わります。
  • 「恋する心」「慕う心」、それは一体感への希求です。交わりへの希求、愛の希求です。この希求は神が人間にのみ与えられた基本的欲求です。人が恋しい、だれかといっしょにいたい、だれかと話がしたい、あの人が好き・・、これらはすべてこの希求と言えます。そして、この希求が満たされ得ないとき、人は心の渇き、愛の渇きを覚えるのです。また、この希求があまりにも強過ぎるとき、人の道からはずれてしまうこともあるのではないかと思います。
  • イエスがサマリヤで出会ったひとりの女性(ヨハネの福音書4章)は、人一倍、この欲求に渇いていました。イエスはそのことを知っていました。旅の疲れでイエスはサマリヤの井戸のそばで休んでいたときに、人目を避けるように、暑い昼の最中に水を汲みにきたひとりの女性と出会いました。イエスはその女性に水を一杯飲ませてくださいと願うところから、この女性との会話が始まっていきます。イエスはこの女性に「この(井戸の)水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしの与える水を飲む者だれでも、決して渇くことかありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と不思議なことを言いました。彼女には五人夫がいましたが、すべて別れて、今は夫でない人と一緒に暮らしていたのです。イエスはこの女性を、ふしだらな女性だとさばくことをしませんでした。むしろ、愛に飢え渇いた一人の人間として見てくださっていたのです。表面的な愛ではなく、本当の愛としての一体感の希求は、結局は、神との交わりによってのみ完全に満たされることをイエスは彼女に気づかせようとしたのです。サマリヤの女性と同様、実に、多くの人々が自分のほんとうの渇きに気づいていないことが多いのではないかと思います。
  • 詩42篇の作者は自分の渇きを自覚した人です。それを表わすことばがたくさんあります。「慕いあえぐ」「生ける神を求めて」「渇いています」「思い起こし」「心を注ぎ出しています」「私の救い」・・これらはみな神への一体感の希求を表わす用語です。しかし作者は今、神との一体感を喪失しています。かつて味わったことのある神との一体感のすばらしさを思い起こし、その希求が高まるのですが、「それでもなお、意気消沈し、ふさぎ込んで」しまっているのです(LB訳、6節) それゆえ、繰り返し、自分に向かって呼びかけ、問いかけ、叱責しているのです。「神を待ち望め」、「なおも神をほめたたえよ」と。
  • 一体感の希求、愛の渇きはどうしても満たされなればならないものです。一杯の水のありがた味は、渇きを経験した者でなければわかりません。神のすべての祝福は渇く者にのみ与えられます。イエスは言われました。「義(神との関係)に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5章6節)と。そして、主イエスは今も私たちに呼びかけておられます。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7章37、38節)と。私はこのイエスのことばの約束に立ち、生ける水によって渇きがいやされ、生ける神を味わいたいと思います。

〔追 記〕

  • イエスが十字架上で語った「わたしは渇く」ということばは、私たち人間の罪のための身代わりの死のために、御父との一体感を喪失したときのことばです。このことばはイエスの「十字架上の7つの言葉」の5番目です。その前のことばは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」です。一体感、御父との永遠の愛の交わりを保ってきた御子イエスが、その一体感を喪失することは私たちの想像を絶しています。イエスの「わたしは渇く」とはそのレベルの渇きです。しかしイエスはその後で、御父に「わが霊をゆだねます」と言って息を引き取りました。
  • 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われた方が、ここで、私たちに代って完璧な渇きを味合われたのです。やがて、イエスは御父によって復活し、その渇きはいやされます。永遠の神と人との一体感を味わう道が回復されているのです。ですから、「だれでも、渇いているなら、わたしのものに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人との心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネの福音書7章37、38節)とのイエスの招きは今も有効なのです。

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