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瞑想Ps42/B

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瞑想Ps42/B

  • 詩篇42篇と詩篇43篇は本来ひとつのものと言えます。というのは、「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。」という自分に問いかける同じリフレイン(3回)をもっているからです。私は、特に、このリフレイン(反復句)の中にある「なおも」という語句を味わいたいと思います。
  • 「私はなおも神をほめたたえる」の「なおも」という表現の中に、一途に思い続ける、一途に慕い続ける作者の姿に惹かれます。今日、韓ドラ(韓国のドラマ)が流行っていますが、その魅力のひとつは、一途な愛が描かれているからだと思います。欧米や日本ではもう描くことのできない純粋な愛に、現代の多くの人々が渇いているのかもしれません。
  • 詩篇42篇の最初の節をもとに作られた賛美歌「As a deer」(谷川の流れを慕う鹿のように)がありますが、この賛美歌は作者にとって愛する者を失った経験をもとにつくられたと言われています。また、「いつくしみ深き友なるイエスは」という賛美歌も、同様の経験が背景にあると言われます。そして、この詩篇42篇も、かつてエルサレムの神殿で経験していた神とのすばらしい交わりを失った者が、それを思い起こし、涙を流して「生ける神を求めて渇いて」いるのです。
  • ここで大切な点は、神との関係において、「基本的な信頼」を作者が持っているということです。その基本的な信頼こそ、うなだれている自分、思い乱れている自分に向って、「神を待ち望め、私はなおも、神をほめたたえる」と言わせている源泉だと信じます。これは頑張ってできることではありません。「なおも」という告白ができる人はほんとうに幸いな人です。 なぜなら、その人は神への基本的信頼が恵みの賜物としてすでに与えられているからです。
  • 基本的な信頼の欠如している人は、この詩篇の作者のように神を待ち望んだり、神をほめたたえたりすることはできません。人によって、信頼と不信の割合いは異なります。不信から信頼への、その割合が少しでも増えるように、神はさまざまな試練や訓練を通しながら、私たちを成長させようとしてくださっていると信じます。
  • 自分がどのような状況の中に置かれたとしても、「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる方」(ロー マ8章28節)であることを、「なおも」信じることができる人は、ほんとうに幸いな人と言えるのではないかと思います。

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