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瞑想Ps44/A

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瞑想Ps44/A

  • この詩篇では、1節~3節まで、神の民に対する神の愛を歴史的に回顧しています。約束の地であるカナンを与えられたのは、神ご自身であり、神が自分たちを愛されたからだとしています。4節~8節までは、イスラエルの神はどこまでもご自分の民を防衛し、それを保障してくださっていることを告白しています。6節がそうです。「私は私の弓に頼りません。私の剣も私を救いません。」と。しかし、「それなのに」(9節)・・・なのです。
  • 詩篇を瞑想するとき、基本としている聖書だけでなく、いろいろな聖書を読み比べます。今回も、詩44篇を読み比べていく中で特に目を引く訳がありました。それは14節のLB訳です。「『ユダヤ人』ということばが外国人の間で侮辱と恥の代名詞となったのは、神様の(あなたの)せいです。」となっています。とてもおもしろい意訳ですが、この意訳の中にこの詩篇がいつ頃書かれたものであるかが想定されています。神の民が『ユダヤ人』と呼ばれるようになったのはバビロン捕囚以降のことです。しかも、それは軽蔑用語でした。
  • それにしても、「神様、あなたのせいです。」とは喧嘩腰のことばです。「あなたのせいよ」、「いや、おまえのせいだ」と夫婦が喧嘩しているような感じです。「喧嘩する夫婦ほど仲がいい」と言われますが、神とイスラエルの民(ユダヤ人)の関係は、民が神に対して思うことを言える間柄であったと言えます。「あなたのせいです」と感情的に、あるいは赤裸々に言うことで、むしろ神様との関係が深められているのです。なぜそんな喧嘩腰なことを言っているいるのでしょうか。それは、「あなたが、私たちを拒み、卑しめた」からだというのです。(9節)
  • 外国人(異邦人)からの「そしり」「あざけり」「笑い種」「物笑い」「辱め」「ののしり」を受けた現実があります。神の民は完全に自分たちが神から「拒まれ」「捨てられ」「見放され」「無視され」たと思いました。では、彼らが神を見捨てたかというと全くそうではありませんでした。むしろ逆でした。17~18節にしるされているように、「これらのことすべてが私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れませんでした。また、あなたの契約を無にしませんでした。私たちの心はたじろがず、私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした。」という生き方を選んだのです。しかしそれはあくまでも拒絶という危機的状況の中での防御的な姿勢でした。
  • つまり、異教文化の支配の中でその文化を強要される中で、ユダヤ人たちが自らのアイデンティティを守るために取った方策は、頑強なバリア(障壁)を築き上げることだったのです。自分たちの国(といえども、現実は異邦人によって支配権が奪われている)が生存するために、国家としてのアイデンティティを守り、保つために、彼らは神の律法を厳格に守ることにおいてそれを見出そうと考えました。そしてそれはますます強度を増していったのですが、異邦人からはますます拒絶される結果を生み出し、彼らは迫害され続けるものとなったのです。19節にはこうあります。「しかも、あなたはジャッカルの住む所で私たちを砕き、死の陰で私たちをおおわれたのです。」と。
  • 神のために生きることを目指しながらも、いつしか自分で自分を防御しようとして作られる心のバリア(障壁)。このバリアは神の光さえも拒むほどの危険性をはらんでいるのです。特に、神のためと思っている場合には、神との生きた関わりを自ら打ち壊すことになるとはほとんど気づいていないものなのです。
  • もう一度、自分を反省しなければならないと思います。外的拒絶ゆえに心のバリアが築かれていないか、そのバリアが神の名の下に築かれているならば、それを悔い改めなければなりません。「主よ。あなたの光によって、私を導いてください。」と祈ります。

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