****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps44/C

Ⅱ/A(42~72篇) | テキストPs44 | 原典テキストPs44 | 瞑想Ps44/A | 瞑想Ps44/B | 礼拝用語Ps44 | 恩寵用語Ps44 |

瞑想Ps44/C

1. 詩44篇の人称代名詞について

  • この詩44篇において、神に向かって祈っている者が「私たち」であったり、「私」であったりして混乱しているように見えます。詩篇でおいては、人称代名詞がいったい誰であるかを正確に理解しないと、的外れの理解になってしまいます。
    (1)「私たち」、「私」(4, 6, 6, 15, 15)―この詩篇の祈り手
    (2)「彼ら」―先祖たち
    (3)「あなた」―神
    なお、人称のない語り手は、この詩44篇では登場していません。
  • 聖書においては、共同体(集団)を一人の人によって代表させる表現があります。たとえば、アダムは肉なる人間の代表ですが、第ニのアダム(キリスト)は霊的な人間の代表です。他には、ネヘミヤが神に祈った祈りー「どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。私たちは・・」(1:6)には、
    「しもべ」である「私」が、イスラエルの民全体を代表しているのを見ます。ですから、詩篇44篇にも「私たち」が、「私」と変わっていてもなんら矛盾はしていないと言えます。新約では、神の教会を迫害したサウロ(後の使徒パウロ)は、「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」と天からの声を聞きました。彼は「この道」に生きる人々(教会の人々)を迫害していましたが、それは「イエス」を迫害していることと同義でした。つまり、ひとりが集団を代表している考え方―これを「集合人格」と言います。

2. 義のために迫害される者

  • ところで、この詩44篇の特徴は、神の祝福を受けた者たち、しかも神に対して忠実な者たちが今、不当な迫害を受けているという事実です。しかし、それに対して神はなにもせずに沈黙しているという「神の不在」を訴えています。
  • 作者(集団、あるいは個人)が神によって愛されたという基本的信頼の経験を持っているだけでなく、「神を自らの王として告白し(4節)、その方に信頼してきたことを述べています。「それなのに」(9節)に、神はなにもせず、私たちを「国々の中で物笑いの種とし、民の中で笑い者とされている」(14節)と訴えています。こうした不条理な苦しみも迫害にもかかわらず、作者の信仰はゆらいでしまったかといえばそうではありません。むしろ反対に、神を忘れず、神の契約を無にせず、心はたじろがず、歩みは神の道からそれていません。しかし、「あなたのために、私たちは一日中、殺されています。」(22節)とあるように、神のために、その信仰のゆえに迫害を受けているのです。
  • 御子イエスは「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。私のために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ5:10~11)と言われました。「義のために」、すなわち神を信じて生きる信仰者が迫害を受けることは、ある意味当然であるかのようであり、むしろそれを喜びとすることを勧めています。
  • 「種まきのたとえ話」の中に「岩地に落ちた種」は、みことばを聞くとすぐに喜んで受け入れが、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」者がいることを述べていますが、「みことばのために迫害が起こることが当然のように前提となって語られています。
  • 何よりも、御子イエスが「義のために迫害された」人であり、それゆえに不当な裁判を受け、十字架の上に磔にされましたが、イエスの弟子たちも、そしてユダヤ人そのものが歴史の中において繰り返し迫害されました。そしてやがて千年王国が訪れるその前の患難時代においても、未曽有の迫害があることが預言されています。
  • 御子イエスに従った使徒ペテロはその手紙の中でこのテーマについてこう記しています。

    Ⅰペテロ2:19
    「人がもし不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれる事です。」
    同、3:14
    「・・たとい、義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を童謡させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」

  • 使徒パウロもこう記しています。

    ガラテヤ4:29
    「肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今も、そのとおりです。」
    Ⅱテサロニケ1:4
    「あなたがたが、すべての迫害と患難とに耐えながら、その従順と信仰とを保っていることを、誇りとしている。」
    Ⅱコリント12:10
    「私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦難、迫害、困難に甘んじている。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
    Ⅱテモテ3:11, 12
    「・・私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。しかし主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな迫害を受けます。」

  • 今日の日本においては、聖書が記しているような迫害を経験することはほとんどありません。それゆえに信仰はなまぬるくなっていると言われても致し方ありません。殉教はいつの時代においても信仰を燃やす火種となったのです。今一度、「義のために、迫害を受ける者は幸いです。私のために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」と言われた信仰の創始者であり、完成者である御子イエスのことばを、しっかりと肝に銘じたいと思います。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional