****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps51/A

Ⅱ/A(42~72篇) | テキストPs51 | 原典テキストPs51 | 瞑想Ps51/B | 礼拝用語Ps51 | 恩寵用語Ps51(1) | 恩寵用語Ps51(2) | Ps51の「かかわりの構造」 |

瞑想Ps51/A

  • この詩篇のキー・ワードを17節「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。」といたします。「砕かれた、悔いた心」とはどんな心なのか。なぜ神はそうした心を喜ばれるのか。そして私たちはそこにどんな希望をおくことができるのかについて思いを巡らしたいと思います。
  • 「砕かれた、悔いた心」とは、神に対する背きの罪に対する認識と、自分の罪に対する徹底した正直さです。3節でダビデは「まことに、私は自分の背きの罪を知っています。私の罪は、いつも自分の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。」と告白しています。この詩篇には、ダビデが実際に犯した罪が背景にあります。それは姦淫と殺人の罪です。表題にもあるように、ダビデの罪が預言者ナタンによって指摘され、その後に作られたのがこの詩篇だと考えられます。
  • 詩篇の中でも、罪の問題をこれほどまでに深くえぐり出したものは他にありません。17節の「砕かれた、悔いた心」の反対は、堅い頑固な心です。それは人間の暗い心の面を直視しようとしない心と言えます。しかしそうした心が打ち砕かれて、悔いた心となる。「悔いた心」とは「悔い改めた心」です。単に、悔いるということではなく、悔い改められた心、つまり、造り変えられた心です。それは神によって新しくされた心です。神はこの心をことのほか喜ばれます。
  • ダビデの罪の意識は、単にこれこれの罪を犯しましたということにとどまりません。たとえ、もしそのような罪を犯さなかったとしても、生まれながらにして、存在そのものが罪深い者であるという認識です。5節を見ると「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました」と述べています。この罪は原罪と言われるものです。どんなにかわいい赤ちゃんでもそれは隠れています。そしてやがてそれは芽を出してきます。人間はこの原罪から逃れることは決してできないのです。
  • ダビデはだれよりも神を求め、神を慕い、神を愛した人です。と同時に、だれよりも神に背いた人でもあります。なんという謎。明暗、清濁併せ持つ存在、・・これが人間の真実な姿なのです。ダビデは6節でこう祈ります。「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます」と。LB訳では「神様をお喜ばせるのは、徹底した正直さだけです。ああ、そのことを私に徹底的に分からせてください。」と訳されています。
  • 砕かれた心は。神の前に義とされるなにかを提示できるようなものが自分のうちに何もないことを認める心です。自分を義人だと自任して、他の人々を見下している者たちに対して語ったたとえ話(ルカの福音書18書9~14節)にあるように、義とされて帰ったのは、「こんな罪人の私をあわれんでください」と自分を罪人として正直に認め、神のあわれみを求めて祈った取税人の方でした。神が一方的に取税人に義を着せられたからです。
  • ダビデにしても、取税人にしても共通することは、神の御前に自分の醜いありのままの姿を素直に提示していることです。このような心を神は喜ばれることを心に留めたいと思います。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional