瞑想Ps52/B
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瞑想Ps52/B
- この詩篇はダビデの生涯において最も孤独と弱さを感じた時ではないかと思います。アヒメレクに対しても「嘘」を言わなければならないほど、自分のみじめな姿をさらけ出しています。だれも共感する者もなく、人生の落ち目にあるダビデ。しかし、そうしたダビデの状況の中で、彼が「神の恵みはいつもあるのだ。」(1節後半) 「私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。」(8節後半)と言えた姿に感動を覚えます。徹底した神の loving-kindness それは神がGoodnessであるゆえに注がれる神の不変の愛、それが「いつも」all the day、「たえず」continually、「どんなときにも」all time、あらゆる場合においてもあることを知ることは勝利です。それはまさに、「神の家に生い茂る(常緑樹の)オリーブの木のように」、常に、いのちに満ち溢れているということができます。
- 使徒パウロも「主は『わたしの恵みは、あなたの恵みは十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現わされるからである。』と言われたのです。ですから、私は、喜んで、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。・・・なぜなら、弱い時にこそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12章9,10節)
- この逆説は、様々な状況に支配されやすい私たちの弱さを認める者に与えられる神の祝福です。今日の社会に見られる頑張りの世界は、弱音を吐くことの許されない世界です。さらけ出すことの「恐れ」があります。しかし、自分の弱さを認めて、はじめて知る神の恵みがあります。ダビデも自分の弱さと恐れのゆえに、この時期、大芝居を打つ経験をしました。後で、おそらくダビデはそれを恥じたと思います。なぜなら、神の恵みはいつも変わることなくそこにもあったはずだからです。羊飼いの仕事をしていたときも、ゴリアテと戦ったときにも、またサウル王を立琴で慰めたときにも、あるいは、サウルの殺意が明確になったときにも・・・神の恵みがそこにあったのです。
- 人を変えていく力は神の恵みです。がんばりの世界ではなく、変わることのない神の一方的な愛に基づく守りと祝福であることを、信じ、感謝して、それを人に語り、あかしして行きたいと思わされます。