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瞑想Ps55/A

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瞑想Ps55/A

  • この詩篇には有名なみことばがあります。それは22節「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」です。とても励まされ、慰められるみことばです。しかしこのことばは、おそらくはダビデの議官であり、有能な進言者でもあったアヒトフェルがダビデに対して謀反を起こした後、ダビデを皮肉ったことばであると知っても、つまずかない者は幸いです。たとえ、それが皮肉られたことばだとしても、やがてその通りになってしまったからです。ダビデはいつも22節のような内容を公言していたのだと思います。しかしそれが真底試される事件が起こります。その事件とはダビデの息子の中でも最も賢かったアブシャロムによるクーデターです。
  • この詩篇においては人称が混乱しているように思います。「彼」とは誰なのか。「彼ら」とは誰のことなのか、そして「あなた」とはだれのことか、分かりにくさがあります。しかもこの詩篇には具体的な表題はありません。しかし、ダビデが王となった後で起こった息子アブシャロムによる「クーデター」を背景として読むと人称の問題は容易に解けます。サムエル記第二、15章~18章を参照のこと。
  • 息子アブシャロムのクーデターによって、ダビデは命からがら都を後にします。都落ちです。そのときのダビデの本当の心情をこの詩篇で知ることができるように思います。それは決して奇麗事ではありません。自分の身内から起こった反逆です。「わたしは悩みによって弱りはて・・気が狂いそうです。」(2~3節、口語訳)とあるように、まさにこのときダビデは発狂寸前の状態だったのです。祈りどころではありません。LB訳はいみじくもこう訳しています。「重荷につぶされそうなこの身からは、うめきと涙しか出てきません」と。
  • 「うめきと涙」しか出てこない、そんな日がいつ私たちに襲わないとも限りません。外からの敵ではなく身内による裏切りは、ことのほか身にこたえるものです。そうした経験は心の傷(トラウマ)となります。現代ならば、引きこもりの症状をあらわすことでしょう。ダビデもそんな症状をあらわしたようです。「ああ、私に鳩のように翼があったなら、そうしたら、飛び去って、休むものを。ああ、私は遠くの方へのがれ去り、荒野の中に宿りたい。あらしとはやてを避けて、私ののがれ場に急ぎたい。」(6~8節)。これはだれもが経験する思いではないかと思います。「それは現実逃避だ ! もっと前向きに立ち向かえ!」と言われようともそうできないのです。
  • 17節でダビデは「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく」。朝から晩まで絶え間なく泣きうめいている。ただそれだけ。祈ることも賛美することもできない。しかし、実は、その嘆きとうめきの声は神に聞き届けられているのです。うめきの声はどんな祈りの言葉よりも雄弁な祈りとして神に届いているのです。サムエルを生んだ母ハンナもそうでした。
  • 神との関係において、感情を表にさらけ出すこと、これができるかできないかによって明暗が分かれます。人の前でも、神の前でも、本当の自分を隠しながら「良い子」でいようとするなら、必ず、よくない結果になります。ダビデは神の前に自分の本当の気持ち(感情)をぶつけることのできた人でした。神はそうした姿に目をとめてくださる方なのです。
  • この詩篇の表題には「ダビデのマスキール」とあります。「マスキール」とは、教訓詩のことです。この詩篇の教訓とは何かを考えてみるならば、ただうめくことしかできなくても、神はそのうめきを聞いてくださる方だということです。最後に17節と22節に目を留めましょう。
  • 「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。」
  • 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる(新共同訳「支えてくださる」)。主は決して、正しい者(LB訳「信じて従ってくる者」)が、ゆるがされるようにはなさらない(LB訳「足をすべらせたり、倒れたりするのを、神様は黙って見ておられるはずがありません。」)。

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