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瞑想Ps6/A

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瞑想Ps6/A

  • この詩篇の中で、私は3節の「主よ。いつまでですか。」をキー・ワードにして瞑想したいと思います。嘆きの詩篇の特徴は、「・・してください」「・・しないでください」「・・しますように」という表現はもちろんのこと、「いつまで」「どうして」「なぜ」といった、切迫性、緊急性を帯びた表現がしばしば見られます。自分が今置かれている状況の中である種の緊迫性をもって神に訴え、嘆願しているのです。
  • この6篇では、ダビデが病気になり、いやしを求めています。リビング・バイブルの訳ではその様子がよく表わされています。「(私は病気なのです。) 狼狽し、頭が混乱しています。心は不安に駆り立てられ、気分がすっかりめいっています。・・早く元通りにしてください。ああ主よ、・・私を健康にしてください。」(3、4節)と。
  • 今日のように医学の発達していない時代においては、病気はいつも死と隣り合わせだったと思います。それは不安を駆り立て、恐れおののかせるものであったと思います。ましてや、痛みを伴う病であればなおさらのことです。ダビデは病がもたらす孤独の中で、「自分は神を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。もしかして、あの罪が私を病気にしたのだろうか」と自問したのではないでしょうか。「責めないでください。懲らしめないでください。」(1節)ということばの中にそのことを伺わせます。
  • 私も病気になったとき、「これはきっと私の・・・の罪が原因?」と自問することがあります。自分の内に罪がなかったかどうかを思い巡らし、もしそうであるなら、そのことを悔い改めて主の赦しを願うことが必要です。それによって早く回復するということを、私は経験してきました。しかし、病を罪の結果としてのみ考えるだけでは、解決がつかないことがあります。むしろ病は、病の中で、それまで自分が気がつかなかった大切なことを気づかせてくれる神のチャンスでもあるのです。
  • ある年輩の婦人が、つい最近まで、一ヶ月近く風邪で寝込みました。いつも健康であったため、寝込んでも二、三日で回復してしまうような人でした。ところが、今回の風邪はかなり堪えたようです。元気な人は、なかなか他人の病気の痛みを理解できない弱さがあります。心の内で、病気の人を「弱い人」と決めつけているところがあります。しかし、そうした健康傲慢を打ち砕かれる経験をその方はしたようです。入院こそしませんでしたが、食欲がなく、病院で数回、点滴を受けました。その時、その方は嫁が自分のそばに付き添ってくれている姿が目に焼きついて離れなくなりました。その方のご主人(すでに亡くなっています)が、生前、病気で入院していたとき、自分の仕事が忙しかったこともあるのですが、一度もご主人のお見舞いに行ってやらなかった自分を思い出し、なんと自分は自己中心で、身勝手で、愛のない冷たい者であったか、と気づかせられたそうです。滅多に病気をしないその方が、今回の経験を通させられたことは神のあわれみでした。その方は、今回の病を通して、自分の弱さとともに、さらに神の愛とあわれみを深く知る機会となりました。
  • 病は人を不安と恐れに陥れます。ましてや、自分に敵対する者たちの存在は、嘆きを一層深いものにしてしまいます。「主よ。いつまでですか。」(3節)と、いらだちの気持ちが込み上げてきます。自分の存在が忘れ去られるのではないか、自分の立場が他の人によって奪われてしまうのではないか、といった恐れと不安、それが私たちの現実ではないかと思います。しかし、そうした現実の中で、ダビデは自分の嘆きの声を聞いてくださるという確信がやってきます(8~9節)。主は「私の泣く声を」「私の切なる願いを」聞かれ、「私の祈りを」受け入れてくださるという確信です。これは、4節の祈りがもたらした祝福だと信じます。4節後半にある「あなたの恵みのゆえに」ということば、TEV訳では、in your mercy rescue me from death と訳されていて、「あなたの恵み(あわれみ)によって、私を死から救い出してください」とダビデは神の心に訴えています。それが、やがて祈りは聞かれるという確信へと変わっていく様子を見ることができます(8~9節)。嘆きから賛美に変わるのは、もう目と鼻の先です。
  • 英国の有名な説教家であったスポルジョンは、神を敬う者には<嘆きの召し>があると言っています。つまり、追い詰められた嘆願こそ、祈りの真髄を引き出すものだということです。確かに、新約聖書の中には、イエスが驚かれたほどの切迫した嘆願の模範例があります。

    自分の部下のいやしを願った百人隊長
    中風の者をイエスのもとに連れて行った4人の者たち
    12年間長血をわずらった婦人
    悪霊に憑かれた自分の娘のいやしを願ったカナンの母親
    盲人バルテマイ
    10人のツァラートに冒された人たち

  • 以上の人たちは、切迫した嘆願によって、神からいやしの力を引き出しました。このように、嘆きは、私たちにとって決してマイナスのことではなく、神にあっては、多くの益を引き出す神の愛の配慮と言えます。嘆きを通して、「主に身を避ける者の幸い」のひとつひとつを味わっていきたいものだと思わせられています。それが私たちに対する主の召しであるならば・・・・。

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