****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps62/A

Ⅱ/A(42~72篇) | テキストPs62 | 原典テキストPs62 | 瞑想P62/B | 礼拝用語Ps62 | 恩寵用語Ps62 | Ps62の「かかわりの構造」 |

瞑想Ps62/A

  • この詩62篇はきわめて明確な神への信頼の詩篇です。キー・ワードは1節にあります。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」と。しかも、自分に向かって語りかけています。このキー・ワードは5節でも繰り返され、8節では民に向かって呼びかけています。神を待ち望むことは神の主権に対する信頼です。ですから、ダビデはこう言っています。「私の救いと、私の栄光とは、神にかかっている」と(7節a)。LB訳では「私が守られるのも、名声を獲得するのも、神様のおこころひとつです」と訳しています。
  • 「神を信じること」、「神を信頼すること」とは、「神を待ち望む」こととイコールです。それはまた「神を恐れること」「神を愛すること」ともイコールです。ところで、「神を待ち望む」ことは私たちが考えているほど容易なことではありません。旧約の民は、神を待ち望むことができず、神に信頼することができずに自分の思いや考えで事をなそうとして失敗しています。
  • 神を待つということについて、新約聖書の「使徒の働き」1章で復活されたイエスがご自分の弟子たちに語っています。「待つ」ことはお勧めではなく主イエスの命令です。ですから、その命令をないがしろにすることはできません。
  • 何を(誰を)待つのか
  • それは父の約束です。その約束とは「もうひとりの助け主(聖霊)が与えられる」ということです。その助け主を待つことがキリストの弟子たちに求められています。その方の助けなしには私たちは何も知り得ず、神のみこころをすることができないからです。もしこの「助け主」が私たちの上に臨まれるならば、神の力を受けます。その力とは神を知る力であり、神をあかしすることのできる力です。しかもその力は私たちの能力を越えた力なのです。
  • どこで待つのか
  • それはエルサレムです。そこは弟子たちが主を裏切った苦い経験をした場所です。つまずきの場であり、失敗の場です。しかも周りのだれもがそれを知っている場でもあったのです。そんな場所から弟子たちは立ち去ろうと思っていました。しかし主イエスは彼らに言いました。「エルサレムを離れないで・・・待ちなさい」と。そこを「動くな」「とどまって」と主は言われます。弟子たちの名誉挽回の場所となるのは、彼らの最も醜いものが暴露された場所でなければなりませんでした。ダビデが「黙って」(詩62篇11節)、神からの救いの手が指し伸べられるのを待ったように、イエスの弟子たちも待つことを学ばなければなりませんでした。彼らの名誉を挽回できるのは神様だけです。
  • どのようにして待つのか
  • それは「ひたすら祈りながら」です。詩62篇の「黙って」は、単に「果報は寝て待て」の意味ではなく、神に心を注ぎ出し、神の御声を聞くことをひらすら求めながら待つという意味です。私たちの弱さは、祈って待つことよりも、自分からなんらかの行動を起してしまいやすいことです。祈って待つことに耐えられないのです。神の前に「黙って」とは、動くことをやめ、神の語りかけを聞くために静まることを意味しています。そうした静かな時、沈黙の時をもつことができない私たちの生き方が問題なのです。これは神への信頼のテストです。
  • 私もダビデのように神の主権を認め、神の御手を信じて、ただ、黙って神を待つことをしたい。そしてダビデが語ったように「私の救いと、私の栄光とは、神にかかっている」と告白します。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional