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瞑想Ps7/A

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瞑想Ps7/A

  • 今朝の詩篇の瞑想のキー・ワードは1節「私の神、主よ。わたしはあなたのもとに身を避けました。」です。この詩篇は、これまでの1~6篇までに出てきたすべての要素がみられます。たとえば「正しい者と悪者」の存在、「盾」ということば、「立ち上がってください」という祈り、そして「義」・・などです。7篇では、特に新しい要素として「神は正しい審判者」(11節)が見られます。ダビデにとって、この正しい審判者に身を避ける経験を余儀なくされたようです。
  • 身を避ける」という言葉は、2篇12節でも触れたように、信頼を表わすことばです。「主よ、信頼します」ということを口にしたり、歌ったりすることは簡単なことです。しかし、私たちがさまざまな状況に置かれるとき、特に、自分に非がないにもかかわらず、人から誤解され、非難され、拒絶され、迫害を受けたらどうでしょう。不条理で理屈に合わない苦しみの中に置かれるとき、それでも主のもとに「身を避け」て、「主よ。信頼します」と言えるでしょうか。信頼は試され、ふるいにかけられなければなりません。主への信頼は簡単に築かれるものではないからです。長い時間をかけながら、試練の中を通させられながら、ゆっくりと、熟成されていくものなのです。
  • ダビデは少年の時、預言者サムエルから、やがて王となるべく油注ぎを受けました。非公式でしたが、神にとっては明確な計画でした。しかし、イスラエルの王となるということはそんなに簡単なことではないはずです。すでに王であったサウルは王として落第し、神は彼を王位から退けられていました。ダビデが王になるためには、それ相応の準備が必要でした。その準備とは、どこまでも神を信頼するという訓練を受けることでした。油注がれたダビデは、イスラエルの強敵であったペリシテの巨人ゴリアテを相手に、石投げ一つで見事に倒したことによって、サウル王の宮廷に招かれるようになります。サウルは若いダビデに助けられたことを感謝し、彼を重んじました。ところが、ダビデの名声が高くなるにつれ、心中穏やかでなくなってきました。
  • そんな時、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」(Ⅰサムエル18章7~8節)という女たちの歌を聞いたとき、サウルはキレてしまいました。ダビデに対する妬みと恐れが一気に噴き出したのです。ダビデが謀反を起こし王位を奪われるのではないかと恐れたからです。そしてダビデを殺害しようとしたのです。ダビデにとってはまったく迷惑な話ですが、彼が神の代理者としての王(これはイスラエルにしかない王制の理念)となるために必要な訓練だったのです。神に選ばれ、召されたことを確信する者にとって、この種の訓練は、選択科目ではなく必修科目だということを肝に銘じなくてはならないと思います。
  • 詩篇7篇もそうした背景を感じさせます。「追い迫る者たち」の存在、しかも「獅子のように、たましいを引き裂く」ような者たちに追われながら、ダビデは主に信頼することを学ばなければなりませんでした。具体的には、いたずらに対抗しようとしたり、復讐したりしないで、「私の盾は神にあり」(10節)と信じて、「正しい審判者」(11節)としての神にゆだねることでした。敵の計略は、必ず、その悪のゆえに、罪のゆえに自滅するからです。それゆえ神にすべてをまかせるという訓練が必須なのです。
  • 2006年3月27日はイエスが死から復活されたことを記念するイースターでした。イエスの驚くべき復活の出来事は、御子イエスが十字架の苦しみの極限の中で「わが霊を御手にゆだねます」と言ったことで開かれた新しい永遠の扉と言えます。イエスは十字架の死を間近にして、「人の子が栄光を受けるその時が来ました」(ヨハネ12章23節)と言われ、そのために「一粒の麦が地に落ちて死ななければ」ならないことを語られました。イエスの心は騒いでいましたが、「父よ。このためにこそ、わたしはこの時に至った」と祈られました。
  • イエスの生涯はその誕生から十字架の死に至るまで、御父を完全に信頼し貫いたモデルです。この信頼の絆こそヨハネは永遠のいのちだと語っています。そしてこの永遠のいのちは御子イエスを信じる者すべてに与えられるのです。イエスの十字架の出来事を取り巻くすべての人、指導者たち、弟子たち、群衆、ギリシァ人を代表とする異教の社会に住む人々・・等、私もその中に含まれますが、イエスを十字架に追いやった一人です。しかし、イエスはそうした私たちに対して、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23章34節)と罪の赦しを祈られました。永遠のいのち、永遠の信頼を回復するために、子を産むために苦しむ女のように、イエスは死という苦しみを受けられ、その中で御父への信頼を貫き通してくださったのです。
  • 信頼の絆を断ち切ろうとするすべての敵に対して、御父と御子の信頼の絆は決して切れることがありませんでした。これが勝利なのです。復活の出来事は、まさに、御父と御子によって、天と地を、神と人とを、信頼の絆、愛の絆で結び直してくださった出来事なのです。そして、神は今日もその永遠の愛という信頼の絆の中に私たちを招いてくださっているのです。そのことを信じる者はなんと幸いなことでしょう。ただただ主に感謝するだけです。

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