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瞑想Ps70/A

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瞑想Ps70/A

  • 詩70篇は、詩40篇の最後の部分とほぼ同じです。内容的には同じでも、よく見ると(同じ聖書でも)、微妙に表現が異なっていますが、ここではそうした違いに目をとめず、より大切なところに目を留めたいと思います。それは4節の「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように」という祈りです。「神にあって楽しみ、喜ぶ」というかかわりの世界が存在するのです。この「楽しみ」と「喜び」は詩篇ではしばしばワンセットとして用いられます。
  • ユダヤ人の哲学者マルチン・ブーバーは、自著『対話的原理』の中で、この世界には二つの関係しか存在しないと言いました。ひとつは「我-汝」のかかわり、もう一つは「我―それ」の関係です。そして人類は「我―それ」のしがらみから解放され、「我-汝」の関係に生きることを切望すべきことを訴えています。すべてのかかわりをこのように二つの関係で見る見方は、アインシュタインの相対性原理にも匹敵する20世紀の偉業だといわれています。
  • 主イエスも「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから・・」(マタイ5章10~12節)と語られましたが、「義のために迫害される」ということが、あたかも当然であるかのように語っています。
  • 「義のために」とは、あるかかわりを意味しています。それは「我-汝」のかかわりの世界です。「我―それ」のかかわりと「我-汝」のかかわりは、この世においては両立しえないのだと思います。イエスは後者のかかわりで生きようとしたために、この世から拒絶されました。
  • 信仰という名のもとに、私たちの身勝手な行動や自分本位な考えによる疎外を迫害と考えてしまうことは良くないことだと思います。ここでの迫害は、あくまでも「義のために」、つまり、何よりも神とのいのちに満ちた関わりを優先し、大切にするゆえに起こってくる迫害です。神は、そうした迫害を許しておられます。イエスも「義のために」―イエスの場合は、御父とのかかわりのゆえにー迫害されましたし、初代教会におけるステパノも迫害を受け、最初の殉教者となりました。しかしその殉教者の血は、人々の思いを越えて広がり豊かな実を結びます。イエスが自分のもとに訪ねてきたギリシャ人に、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネの福音書12章24~25節)と言われました。ギリシャ人はなによりも自分のいのちを愛する文化―エロス文化―を謳歌します。そうした彼らに、イエスは「自分のいのちを愛する者はいのちを失う」と明言されたのです。報われることはないということを教えようとしました。
  • 「自分のいのちを愛する」という価値観は、マルチン・ブーバーの言う「我―汝」の関係ではなく「我ーそれ」の関係です。「それ」は交換可能な対象であり、すべて自分にとって価値があるかどうか、そのためには相手と取引をし、利用するというGive and takeの世界です。こうした世界は、この世のあらゆる領域に浸透しています。ビジネスにしても、教育にしても、家庭や学校や社会も、またスポーツや芸術の世界でも、この関係で動いています。そこでは人との関わりはきわめて希薄です。ビジネスで企業戦士として働いてきた人も、そのビジネスから身を引くことで、その世界の人々との関わりも失ってしまいます。
  • 「我―それ」の世界では、自分が必要とされるために価値ある者となり続けなければなりません。その報酬として自分の存在が認められるからです。ですから、Give and take の世界では、常に、「頑張りの世界」です。それを強いられる世界とも言えます。そして、その結果は疲れと空しさです。
  • そのような世界で翻弄させられることなく歩むためには、「我―それ」の関係で生きるのではなく、「我-汝」の関係で生きることを選び取るほかありません。と言っても、それはあくまで「我―汝」としてかかわってくれる神がおられるゆえに、それを見出すことができるのです。「我-汝」のかかわりを選び取ることは、「我ーそれ」のかかわりとの戦いを余儀なくされます。それは、イエスのいう「義のために」というかかわりを意味します。それは、当然、この世の価値観とは異なり、葛藤が生じます。場合によっては、周囲からのいやがらせや迫害を受けるかもしれません。しかし、その結果は、永遠のいのちに至るとイエスは約束しています。それは切れることのない、決して失われることのない永遠の愛のかかわりであり、すべての行為と思いの苗床です。そのようなかかわりこそ、人を輝かせていくいのちだと信じます。いのちへのあこがれを新たにし、それを保ち続けたいと祈ります。

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