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瞑想Ps75/A

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瞑想Ps75/A

  • 詩74篇では、自分たちのしるしがもう見られないほどに打ちのめされた悲しみを訴えながらも、そこからの回復(再起)への嘆願がなされていました。ところが、詩75篇では、「私たちは感謝します。・・・御名は近くにあり(ます)」となっていて、神のみわざによる勝利が与えられたことが分かります。その最初には、その感謝があり、最後には、賛美への誓いがなされています。
  • 1節に「私たちは、あなたに感謝します。神よ、私たちは感謝します。」とありますが、何を感謝しているかといえば、「御名は、近くにあり」、つまり、主は近くにおられた、いつも心にかけてくださっていた、心に留めていてくださったとその理由を述べています。
  • 「御名は近くにある」-その現実が知らしめられるような神の「奇しいわざ」がなされたのです。その「奇しいわざ」―驚くような奇蹟的な神のわざーがなされたことが、2節から5節に記されています。具体的ではありませんが、それは神の「定めの時」が来て、神の公平なさばきがもたらされた出来事でした。思うに、これはバビロンがペルシアに破れた出来事とそれに伴うイスラエルの帰還が実現したことを指しているようにも、あるいはその出来事に先立つアッシリアのセナケリブによるエルサレム攻略の失敗(イザヤ36章、37章参照)を指しているようにも考えられます。
  • アッシリアもバビロンもいずれも傲慢な民であり、自らを誇り、神に対して横柄な態度をとっていました。神は預言者を通して、「角を上げるな。おまえたちの角を、高く上げるな」と警告していました。なぜなら、人(あるいは国)を高くあげるのも低くするのも、人ではなく、神だからです。
  • 8節には「主の御手には、杯があり、よく混ぜ合わされた、あわだつぶどう酒がある。」という表現があります。「よく混ぜ合わされた、あわだつぶどう酒」とは、薬草やスパイスを混ぜて飲みやすくし、酔いを効かせるようにした酒のことであり、神がひとたび立ち上がり、そのぶどう酒の入った「怒りの杯」が注がれるならば、神に敵対する「この世の悪者ども」はこぞって跡形もなくなって滅び去ってしまう。まさにアッシリアもバビロンも、神の怒りの「杯」によってこの世の歴史から消え去りました。そして神の民は神によってもう一度再起することができたのです。そのことのゆえに、「とこしえまでも告げよう」、「ヤコブの神をほめ歌おう」(9節)と賛美の誓いをしています。
  • ところで、詩73篇のアサフは「私にとって、神の近くにいることがしあわせなのです」ということで解決の光が与えられましたが、この詩75篇でも「御名は、近くにあり」で主の臨在の確信を深めています。「主が近くにおられる」という思想を、詩篇の中から拾ってみると、三つの箇所にそれを見ることができます。
    • 34篇18節
      「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」
    • 119篇151節
      「しかし、主よ。あなたは私の近くにおられます。」
    • 145篇 18節
      「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」
  • 「打ち砕かれた者」、「主を呼び求める者」、「まことをもって主を呼び求める者すべて」に主は近くあってくださると記されています。心が打ち砕かれた者と真実に神を求める者、そうした者に主は近くあってくださるということは、見方を変えると、そのような者に神は見出されるということかもしれません。暗いトンネルの中に入ってしまって、いつまでその状況が続くのかわからないような中でも、また、私たちが気づかなくても、主は私たちの近くにおられて心にかけていてくださっているのです。それは、私たちが自ら神を真実に求めはじめるまで、その時が来るまで、神は隠れておられるのかもしれません。

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