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瞑想Ps76/A

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瞑想Ps76/A

  • この76篇も背景的にも、また主題的にも、前篇の75篇と同じと考えられます。神の主権と不可抗的なさばきがたたえられています。特に、この詩76篇で注目したい箇所は10節です。「まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ、あなたは、憤りの余りまでをも身に締められます。」 
  • わかりにくい比喩的表現ですが、LB訳を見てみると「人間の無益な憤りは、神様の飾りとなるだけで、かえってご栄光を輝かせるのです。」と訳されています。分かりやすいですが、LB訳は10節が言おうとしていることの前半の部分だけが解説されているようです。
  • 神に抵抗する人間の憤りも、結局のところ、神の栄光を現わすものとして用いられてしまうという主題は、聖書全体に流れているものです。悪の力をみずからの栄光のために用いて、そこからシャロームを引き出すことは神が歴史の中でいつも行なってきた仕業です。
  • たとえば、ヨセフが兄弟たちの嫉みによって奴隷としてエジプトに売られるという出来事がそうでした。この物語の結論は、ヨセフが兄たちに言ったことはです。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50章20節)と。
  • また、出エジプトの出来事の際にも、神はパロの心のかたくなさをご自身のために用いられました。パロの愚かな振舞いを許容されたのは、やがて来るべき「出エジプト」を通して、神がご自身の「御名を全地に告げ知らせるため」でした(出9章16節)。
  • そして使徒の働き2章23節においても、ペテロを通して、この世の罪の贖いのために神がキリストに対する人々の怒りを利用する計画を立てていた次第が語られます。
  • 10節のみことばの後半部分「あなたは、憤りの余りまでをも身に締められます」に目を向けてみると、「怒りの余りもて汝は腰帯としたもう」と訳されています。つまり、神の怒りを免れて生き残った者たち(=神によって勝利した者たち)を、神はその腰帯とするであろうということです。つまり、神がご自身の腰帯とする人々は<
    身体を取り巻く腰帯と同様、神のまわりに集う者、神と密接に結びつけられた者を意味します。
  • 神と最も密接に結びつけられた唯一の存在は、私たちに啓示されたご自身の御子、イエス・キリスト以外にはおりません。御子イエスは御父の腰帯そのものでした。主にある私たちはこの御子が御父をどこまでも信頼して御父の栄光を現わしたように、御父は私たちひとりひとりを御子の姿に似た者としてくださいます。つまり神の「腰帯的存在」としてくださいます。神はあらゆることをーたとえ悪であってもー用いることのできる方です。使徒パウロは次のように述べているのを思い起こします。
  • 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:28~29)

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