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瞑想Ps81/B

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瞑想Ps81/B

  • 5節後半

    「私は、まだ知らなかったことばを聞いた。」(新改訳)
    「わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。」(新共同訳)
    「私の知らぬ言語を私は聞く」(岩波訳)
    「わたしはかしこでまだ知らなかった言葉を聞いた。」(口語訳)
    「わたしの知らない言葉を私は聴く。」(関根訳)
    「私は、耳なれない言葉を聞く。」(バルバロ訳)
    「私は、生まれて初めて、こんなお声を聞きました。」(L.B)


    ※「ことば」と訳されたヘブル語は「サーファー」שָׂפָהで、本来は、「くちびる」、口で発音される「話しことば」を意味します。英語ではlanguage, lipsと訳されます。LXX訳ではこの「ことば」שָׂפָהに「グローッサ」γλωσσαの訳語をあてています。「グローッサ」は新約聖書では「異言」のことです。

  • この作者が5節後半で「私は、まだ知らなかったことばを聞いた。」と述べているその内容は何なのでしょうか。それは隠された神の事柄iに対して、神は私たちを「ためされ」(7節)、「かたくなな心のままに任せる」(12節)ということです。「心をかたくなにするメッセージ」です。自ら、神が語られることばの真意を尋ね求めるのでなければ、それを悟る道は閉じられてしまうのです。イエスが神の国の奥義をたとえで語られたのはそうした理由からです。真の主を求める者にのみ与えられる祝福があることを、詩篇81篇では、10節に「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう(מָלֵא)」、「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう(שָׂבַּע)。」という表現で語りかけています。
  • イスラエル人たちは毎年3回(春の過越の祭、それから50日後の収穫の祭、そして秋の二週間に渡って行われる新年、大贖罪日、仮庵の祭)にエルサレムに巡礼することが定められていました。それは強制的であり、参加しなければ神の民とみなされませんでした。いわば神の民として神の恵みに対する当然の義務でした。大変と思う人もいれば、その時こそレジャー心をくすぐる楽しみな時でもあったはずです。しかし、長い間に渡る仮庵の祭が終わって帰途に着くとき、どれほど民の心が満たされていたかは分かりません。おそらく、華やかな祭りの後に訪れるある種の空しさを抱えながらの帰途であったかもしれません。そうした背景を前提として、先の神の約束を考えるとうなずける面があります。
  • イエスも仮庵の祭が最高潮に達する「祭りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける川が流れ出るようになる。』」(ヨハネの福音書7:37, 38)と言われました。祭りの後に感じる空しさ、たましいの渇きを前提にしての招きです。
  • 私たちは、祭りや華々しいミニストリーの後に、心が満たされるように思います。しかしそれは錯覚です。本当の心の満たし、たましいが満ち足りるということは、そうした活動からはもたらされません。むしろ渇きが激しくなるのです。
  • イエスが言われた「生ける水」とは聖霊のことです。詩篇81篇では神が満たそうと言っておられる内容については特に語られていませんが、それは私たちにとって良いものであり、満ち足りる何かです。私たちにとって、神は良いものを与えてくださいます。マタイ7:10, 11節に「あなたがたは、たとい悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。だとすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものをくださらないことがありましょう。」とイエスの言われたことばが記されていますが、イエスの「良いもの」とは、ルカによれば「聖霊」のことだとはっきりと記されています(11:13)。
  • ギリシア語で「満たす」ということばには二つあります。一つは時間的な満たしを意味する「プレーロー」πληρόωで、「時が満ちる」、「預言者の語られたことが成就する、実現する」といった意味です。もうひとつは空間的な満たしを意味する「ピンプレーミ」πίμπλημιで、新約で22回使われていますが、そのうち20回はルカが福音書と使徒の働きで使っています。それは私たちの心を神の霊で、聖霊によって満たされるという意味で使われています。「聖霊に満たされる」ということばはまさにルカの特愛用語です。
  • イエスを信じる者にはだれでも神の賜物としての聖霊が与えられています。しかし、「聖霊が与えられること」と「聖霊に満たされること」とは全く違います。もし1時間なんでも話してもいいと言われて語り出すならば、その人の心にあるものがみな出てきます。良いことだけでなく、おそらく悪いものもすべて出てくるでしょう。なぜなら、その人の「心に中にあるもの」しか出てこないからです。もしその心が「聖霊が満たされている」なら、当然のように神の良い事柄が、神のすばらしいことばや愛が溢れるように出てくるはずです。初代教会の人々が「聖霊に満たされた」とありますが、それが初代教会の標準でした。ですから、たとえ迫害があっても、壁に突き当たっても、彼らは内から流れてくる神の霊の力に押し出されるようにして新しい神の出来事がなされていきました。
  • 「聖霊に満たされる」ためには、神の前に静まることが必要です。神との豊かな交わりには多くの時間が必要です。ミニストリーにおいて力をアウトプットするためには、それ以上のインプットが必要です。どんなすぱらしい機器でも充電されていなければ無用の長物です。いつでも神の時に神の必要に間に合うためには、常に充電されていることが不可欠であることは言うまでもありません。
  • 私たちにとって、この「聖霊に満たされる」ことは古いことでしょうか。未だ知らない経験でしょうか。もう一度、詩篇81篇10節の「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう」という神の約束を新しく受け留めてみたいと思います。
  • 私たちの主イエス・キリストが啓示して下さった父なる神は与えることを喜びとする神です。しかもその与えるものは、豊かであり、満ち満ちています。使徒パウロは「すべての必要を満たす神」を経験していました。ですから、彼の手紙の中にはそうした表現が随所に溢れています。たとえば、エペソ書では、「あわれみ豊かな神」(2:4)、「大きな愛」(同) 、「すぐれて豊かな御恵み」(2:7)、「私たちに賜る慈愛」(同) 、「栄光の豊かさに従い」(3:16)、「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて、豊かな施すことのできる神」(3:20) 、「私の神は、キリスト・イエスご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4:19)など、栄光の富、豊かさはすべて「神の愛」を言い換えたものです。
  • 天の父は豊かに与えることにおいて、神としての風格(Majesty)を持っておられる方です。しかも良いものを与えたくてしかたがない方です。詩34篇10節b「主を尋ね求める者は、良いもの(トーヴ)に何一つ欠けることはない。」とあり、詩篇65篇4節にも「主に選ばれ、主に近寄せられ主の大庭に住む者は、良いもの(トーヴ)で満ち足りる(サーバー)」とあります。そして詩篇81篇においても、神がご自身の民に最良の小麦を食べさせ、岩の上にできる蜜(これはナツメヤシのこと)で満ち足らせよう(サーバー)。」と約束しておられます。とすれば、私たちは私たちにとって最も必要な良いもの、すなわち、聖霊によって満たされることができると信じて、それを求める生き方をしたいと思います。この方は私たちが神の子どもとして生きるために必要なキーパーソン(key person)です。

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