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瞑想Ps94/B

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瞑想Ps94/B

  • 神は愛であると信じている人にとって、「復讐の神」という表現はつまずきになるかもしれません。しかし詩篇は人間のありのままの感情をありのままに、せきららに綴っているということにおいて価値があります。不当な仕打ちを受けた者がその相手に対して報復したいと思う気持ちは、人間であればだれもが持つ感情です。世界の歴史はまさに報復の連鎖によって綴られていると言っても過言ではありません。しかしながら、この詩篇の作者はその感情を神に向け、神の正義によって報復してくださるようにと祈っているところがすばらしいところです。
  • 1節の「復讐の神」(新改訳、岩波訳、バルバロ訳)、「報復の神」(新共同訳)、「仇を返される神」(関根訳)、「さばきを現わす神」(典礼訳)に対して、「光を放ってください」(新改訳)、「輝き出てください」(岩波訳)、「あらわれよ」(バルバロ訳)、「顕現し」(新共同訳)、「光り輝いてください」(典礼訳)と訳されていますが、その意味するところは、全地のさばき主として、正義を執行してくださいという祈りです。
  • 「光を放つ」と訳されたヘブル語は「ヤーファ」(יָפַע)で、旧約では8回、詩篇ではこの箇所以外では50:1と80:1に使われているだけです。英語では shine forth と訳されています。
  • 長い間(400年間)、異邦人によって支配されてきたイスラエルの人々は、この異邦人の支配をくつがえして、報復してくれる王(メシア)を待ち望んていました。それ以外には考えられないことでした。しかし、イエスが宣教を開始されたとき、イエスは会堂でイザヤ章61章を読まれ、この預言は今日成就しましたと宣言されました。ところがそこにいたユダヤ人たちはこのイエスを殺そうとしました。なぜなら、イザヤ書61章の預言の中で「主の恵みの年を告げ知らせ」というところで止まり、その後の「復讐の日を告げる」ということばを省いてしまったからです。
  • 神の王としての統治において、最終的なさばきは延期された形です。さばきのない救いはありません。最終的なさばきはありますが、今は「毒麦」がそのまま抜かずにおかているのです。ここに神の聖なる救いのプロセスがあります。
  • 私たちはすぐにでも正義によって悪がさばかれるようにと願いますが、神のなさることは聖です。イエスも「わたしにつまづかない者は幸いです」と言われたのも、神のさばきは私たちの思いや考えを越えているからです。
  • この94篇の作者は、「光を放ってください」と、神の正義が執行されて、悪が滅ぼされることを願いながらも、決してそのようにならない地的現実の中にあって、12節以降にみられるように、「神のみおしえを教えられている人は幸いだ」と目が開かれていきます。たとえ信仰の歩みがよろけたとしても、主の恵み(ヘセド)が自分を支えてくれること。たとえ思い煩い(不安や心配)が増したとしても、主の慰めが自分のたましいを喜ばしてくださるという現実を確信しています(18~19節)。この確信こそこの詩篇を支えているものではないかと思うのです。

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