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瞑想Ps95/B

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瞑想Ps95/B

  • 詩95篇にはイスラエルの民たちが礼拝をどのように考えていたかを考える上できわめて重要な詩篇です。前半の7節aまでだけを考えるなら、その厳しさは理解することはできません。というのはその後半の部分では「私たちは、その牧場の民、その御手の羊である」という認識の厳しさが語られているからです。 
  • 8節の最後の部分に「あなたがたの心をかたくなにしてはならない」とあります。「かたくなにする」と訳されたカーシャー(קָשָׁה)は、旧約で28回使われていますが、詩篇ではここのみです。しばしば「うなじのこわい」と表現されます。()多くの聖書が「心を頑なにしてはならない」と訳していますが、典礼訳だけは「心を閉じてはならない」と訳しています。
  • この心のかたくなさのゆえに、神がご自身の民に愛想を尽かしてしまったことが10, 11節に記されています。
    新改訳「わたしは40年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは私の道を知ってはいない。」と。それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息にはいれない。」と。
  • 典礼訳「40年間、わたしを悩ませた世代にわたしは憤って言った。「彼らは心の迷った者、わたしの道を知らぬ民、かれらはわたしの安息の地に入れない。」
  • 神から愛想を尽かされ、「忌み嫌われる」とはなんとも恐ろしいことです。あわれなことです。それはいつも彼らが心の迷っている民だからです。「迷う」と訳されたターアー(תָּעָה)は、羊のように「道に迷う」「踏み迷う」「さまよう」「迷い出る」といった意味です。この言葉は神を知らない異邦の民ではなく、神に贖われた民に対して述べられています。神の民であっても、神の道を知らず、あるいは知ろうともせず、「さまよい」歩くことがあるのです。エジプトから贖い出された第一世代の者たちがそうでした。
  • その証拠に「メリバでのときのように、荒野のマサの日のように」という現実に起こった出来事をその例証として取り上げています。「荒野のマサの日」の出来事は出エジプトしてまもない頃、つまり40年観の荒野の生活の初期の出来事です。民は水が「苦い」ことをつぶやき、指導者のモーセに不平不満をぶつけました。これは神の彼らに対する信仰のテストでした。水は生きる上で大切なものであることは神も十分ご存じのはずですが、エジプトから彼らを救われた神は、はたしてこの水の問題に対して解決し、生存の保障を与えてくれるかどうかを、民が信頼しているかどうかのテストでした。しかし民はこの「水」のことで、彼らの心に中にある「苦き根」を露わにしてしまいました。
  • 一方の、「メリバでの出来事」とは、40年間の荒野の生活の最後に起こった出来事です。このときも「水」の問題がきっかけでした。このように聖書は両極端(時間的にも、つまり初めと終わり)の出来事を取り上げてその間のすべてのことを表わそうとしています。これはヘブル人たちの特徴的な修辞法です。地理的な面では、「ダンからぺエル・シェバまで」という表現で「北から南までのすべての領域」を意味します。時間的な面では、「マサの時とメリバの時」は40年間のすべてのことを意味しています。実際には、水だけの問題ではなく、食べ物やリーダーに対する態度においても、神の民は「心をかたくなにした」のでした(たとえば、ミリアムのらい病、コラたちの反逆、等)。
  • 「心をかたくなにしてはらない」という警告によって、礼拝とは、単なる宗教儀式を守るということではなく、日々の神に対する心のあり方、すなわち、信頼であることがわかります。エジプトから救い出した神は、人間の最も基本的なニーズに対して、すなわち生存と防衛に対してその保障を与えることのできる方です。そのことを、日々、信頼しているかどうかか問われています。そのような信頼なしの礼拝は、礼拝とは言わないというのが、この詩篇の作者の礼拝観です。
  • 私たちはしばしば教会の礼拝に来て、「今日、礼拝を守れたことを感謝します」と祈る方がおられますが、礼拝とはそのような次元のことではないということです。日々のすべての必要に対して、神はそれを満たすことのできるお方として、信頼をもって生きることが、真の礼拝者であることを教えられます。いつの時代においても神は霊とまことによって礼拝する者を求め、探しておられます。その意味で、「主を知ること、主の道を知ること」はとても重要なのです。


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類義語としてハーザク(חָזַק)があります。旧約では290回、詩篇では5回(27:14/31:24/35:2/64:5/147:1)です。積極的な意味では「心を強くする」という意味ですが、消極的には「心をかたくなにするな」という意味に使われます。

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