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瞑想Ps99/B

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瞑想Ps99/B

  • 詩篇99篇の特徴は「王であられる主」は「聖なる方である」ということです。詩篇99篇に(3,5,9節)に見られます。詩篇22篇3節にも「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」と告白しています。預言者イザヤが「高く上げられた王座に座しておられる主を見た」とき、セラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と賛美しているのを聞きました(イザヤ書6章5節)。 神の「聖」に触れる者はファンディション・ショック(土台の崩壊)を経験します。
  • 「主は王である」という場合の「王である」には「マーラフ」という動詞が使われています。つまり、主は王として統治される、支配されるということです。主が王としてどのような統治をなされるのかが焦点となります。しかし、「主は聖である」(新改訳)、「主は聖なる方」(新共同訳)でのその「聖である」「聖なる」は形容詞の「カードーシュ」קָדוֹשׁが使われています。ちなみに名詞の「聖」は「コーデシュ」קֹדֶשׁ、動詞の「聖なるものとなる、聖とされる」は「カーダシュ」קָדַשׁです。
  • 「主は聖である」の「聖」は形容詞であるゆえに、その本質(性質)を表わすことばです。神の行為(奇しいわざ)やことばのすべてはこの神の本質である「聖」から発していると言えます。

    holy

  • 神ご自身がはじめてこのことばを使っているのはモーセの召命のところです。燃えているのに燃え尽きない柴を光景の中からモーセは主の声を聞きます。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なるקָדוֹשׁ地である。」(出3:5) モーセはこの聖なる場所で神の召命のことばを聞いたのです。モーセは神の聖と出会い、全く新しい人生を踏み出すことになったのです。
  • 「聖」とは区別されていること、比べられないこと、分離され、超越している、説明できない事柄などを意味します。詩篇93篇から続く「主は王である」というテーマがここにきて、「主は聖である」と告白されます。つまり「王なる方は永遠に聖であられる」ということです。そして「国々の民」に対して、「恐れおののけ」「ほめたたえよ」「あがめよ」「ひれ伏せ」と呼びかけています。主が聖であることと、賛美と礼拝は密接な関係にあるようです。ヨハネの黙示録4章に登場する四つの生き物は、昼も夜も絶え間なく、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」と賛美しています。
  • 神を「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美する「讃詠」(サンクトス)は、三位一体の神をたたえる「頌栄」とは異なるものとして、キリスト教会の中で歌われてきました。3度繰り返すのは、三位一体の神であるゆえかもしれません。今日、「主が聖である」ことを歌った賛美歌がありますが、一見、その歌詞の中身は乏しいように見えます。しかしそれは説明的な歌詞を入れてしまうなら、「聖」でなくなってしまうほど、「聖」(カードシュ)ということばが神の本質を表わすからだと思います。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」としか言えないほど、このことばが意味することは極めて深く、人間的な知恵など及ばない世界なのです。
  • 教会の中に、再び、サンクトスの賛美が聖霊によって取り戻されて歌われるべきだと考えます。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」というサンクトスの賛美こそ、きわめて瞑想的な賛美と言えるかもしれません。私たちは聖なる方であるイエスを通して神の聖に出会うことができるのです。

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