碧玉
1. 大祭司の胸当てに埋め込まれている12の宝石
(12) 「碧玉」ー「 ナフタリ部族」
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ベレーシート
- 大祭司の胸当ての最後の宝石は「ヤーシュフェー」(יָשְׁפֵה)でほとんどの聖書が「碧玉」と訳しています。英語では「ジャスパー」(jasper)。この原語に関連する語としては「裸にされる、衰え果てる」という意味の「シャーファー」(שָׁפָה)があります。また、「吹く」という意味の「ナーシャフ」(נָׁשַׁף)があります。「あなたが風を吹かせられると、海は彼らを包んでしまった。彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ。」(出15:10)とあるように「破壊的な風の力」を表わす動詞です。イザヤ書40章24節にも、主が風を吹きつけると君主たちは枯れるとあります。そのような碧玉石に「ナフタリ」部族の名前が刻まれているのです。
1. 「ナフタリ」という名前の意味
- ヤコブの息子「ナフタリ」(「ナフターリー」נַפְתָּלִי)は、ラケルの女奴隷ビルハの二番目の子として産まれました。誕生の時の状況を見ると、ラケルは「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言って、その子を「ナフタリ」と名づけたとあります(創世記30:8)。ここでの「争い」という動詞は「パータル」(פָּתַל)で、「組討ちする、格闘する」というねじまがった女同志の「死に物狂い」の戦いを意味しています。
- そのような「ナフタリ」が父ヤコブから次のような祝福を受けています。
【新改訳改訂3】創世記49章21節
ナフタリは放たれた雌鹿で、美しい子鹿を産む。
- 「放たれた」という原語は「シャーラハ」(שָׁלַח)で、本来は「遣わされる、送り出される」という意味ですが、ここでは自由の身とされて解放される、放たれるという意味で、「雌鹿」にたとえられています。しかもその雌鹿は、「美しい子鹿を産む」という祝福が述べられています。「雌鹿」は「アッヤーラー」(אַיָּלָה)です。
2. 「ナフタリ」の精神
- 「雌鹿」にたとえられた「ナフタリ」のイメージは、「愛らしい」という面と「力を持った存在」という面の、二つを合わせ持っています。
(1) 愛らしさ
愛らしい雌鹿(新共同訳=「愛情深い雌鹿」=自分の妻)、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ(箴言5:19)。(2) 力強さ
彼(=主)は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる(詩篇18:33、Ⅱサムエル22:34、ハバクク3:19)【主】の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする。その宮で、すべてのものが、「栄光」と言う(詩篇29:9)。
- 雌鹿は力の象徴です。なぜなら、「アッヤーラー」(אַיָּלָה)の親語根はאלだからです。この親語根からいろいろな語彙が派生します。「力」を意味する「エール」(אֵל)は同時に神をも意味します。「アイル」(אַיִל)で名詞の「雄羊」「力強い者、有力者」「大樹の樫の木」「建築用に突き出ている柱(壁柱、脇柱)」「雄鹿」、そして「アッヤーラー」(אַיָּלָה)で「雌鹿」です。これらはみな力あるものの象徴ですが、特に「雌鹿」は愛情深さをも秘めています。つまり、破壊的な力をもったイメージの碧玉の中に、力と愛を秘めた雌鹿にたとえられたナフタリ部族の名前が刻まれているのです。
- 大祭司の胸当てに埋め込まれた宝石とそこに刻まれた12部族の名前がすべてイェシュアのある面を指し示しているとすれば、「暁の雌鹿」の調べに合わせて歌われる「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」で始まる詩篇22篇は、イェシュアの十字架の姿を想起させます。それは「美しい子鹿」を産むための、雌鹿の苦しみの叫びです。そしてそれは死に物狂いの争いをして勝利をもたらすナフタリの姿と重なります。
- 大祭司の胸当てに埋め込まれた宝石の最初はユダ部族の名が記された「赤めのう」でした。「赤めのう」は最初の人である「アダム」と同じ語幹を持つ「オーデム」(אֹדֶם)です。そしてその胸当ての最後を飾るのは「碧玉」であり、「雌鹿」にたとえられた「ナフタリ族」の名前です。それは神の愛と力で敵を打ち砕く最後のアダムを指し示していないでしょうか。そして、この二つの部族の名前の間に他の10部族の名前が刻まれているのです。
- ちなみに、ヨハネの黙示録4章3節に記されている御座の光景をヨハネは次のように記しています。
【新改訳改訂第3版】
その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。
2014.7.7
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