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礼拝の聖書神学的構築という課題

序説 2. 礼拝の聖書神学的構築という課題

  • ここでいう「聖書神学」というのは、聖書全体の中で、ある一つの主題がどのように叙述されているかを問うことである。<礼拝>が聖書全体の主要なテーマだとするならば、それについて聖書の各巻、あるいは各区分がどのようにこの主題を叙述し、つながりをもっているかを検証しなければならない。 以下は、その叙述の素描である。

1. 旧約聖書

(1) 旧約聖書の律法書(モーセ五書)における礼拝

  • 神の律法(トーラー)はモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)と呼ばれ、旧約聖書全体において最も重要な土台である。モーセ五書には、神の民イスラエルが礼拝の民として確立するまでの神の導きと礼拝の基本精神と方法が記されている。
  • 創世記では、礼拝の民がいかにしてはじまったか、
  • 出エジプト記では、礼拝の民がどのようにして成立したか、
  • レビ記では、礼拝の民が具体的にどのような方法で礼拝するのか、
  • 民数記では、礼拝の民が経験する様々な状況においていかに神を神として礼拝するかが訓練される。
  • 申命記では、いかにして自発的、主体的に神を礼拝する民として確立され得るのか、愛による選び取りが強調されている。

(2) 旧約聖書の歴史書における礼拝

  • 歴史書は、時代的に、約束の地カナンへの入国から、カナン征服、エサレム陥落、バビロン捕囚、そしてそこからのエルサレム帰還までの出来事を含んでいる。特に注目すべきことは、ダビデ王がそれまでの形骸化されたモーセの幕屋礼拝を改革し、はじめて音楽を取り入れた新しい礼拝スタイルを導入させたことである。これがダビデの幕屋礼拝である。そしてソロモンの神殿において、モーセの幕屋礼拝とダビデの幕屋礼拝とが総合され、大規模な礼拝へと発展する。しかし次第に、国の物質的豊かさを求めたイスラエルの王たちによる異教との外交政策において、イスラエル独自の王制の理念を覆すべく偶像礼拝が持ち込まれ、その結果、礼拝の民イスラエルは神のさばきを招くこととなる。これがバビロン捕囚の経験である。捕囚された民たちは、その苦しみの中で悔い改め、礼拝の民として回復すべく整えられる。そのときに彼らの基盤となったのが、ダビデにあった礼拝の心であった。
  • 特に、歴史書における歴代誌は「礼拝の書」としてきわめて重要である。なぜなら、歴代誌はバビロンから帰還した民がいかにして礼拝の民として回復すべきか、そのアイデンティティを確立するためにダビデ・ソロモン時代の礼拝改革にまで戻って歴史が見直されているからである。

(3) 旧約聖書の聖文書における礼拝

  • 聖文書において、特に詩篇は重要である。そこにはダビデが目指した賛美を中心とした幕屋礼拝と、モーセの幕屋での「いけにえを中心とした礼拝が統合されている。しかも詩篇は、バビロンでのシナゴーグ(会堂)礼拝により、神の律法(トーラー)であるみことばを中心とした新しい礼拝形態を生み出した。それゆえ、詩篇の中には、「みことば賛歌」の詩篇が加えられている。神のみことばへの開眼は、神の民の礼拝の歴史に一段とその深みを増し加えた。詩篇1篇に見られるように、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ(瞑想する)」というライフスタイルは、礼拝の民イスラエルが捕囚の憂き目を通ることなしには、決して築かれることはなかった。

(4) 旧約聖書の預言書における礼拝

  • 歴史の中で預言者が台頭した時代は、神の民が礼拝の基本精神から徐々に反れつつあった時代である。偽りの礼拝とは何か、偶像礼拝の本質が預言者たちによって糾弾されている。最も反れた時代では、預言者たちの空白時代ができるほど迫害を受けた。また、預言者たちはその時代の歴史だけでなく、やがて「終わりの日」に実現回復される礼拝のヴィジョン(パノラマ)を見せられて語っている。

2. 新約聖書

(1) 新約聖書の福音書における礼拝

  • 共観福音書(マタイ、マルコ、ルカの各福音書)はいずれも、「イエスとはだれか」、「イエスはなぜ十字架につけられたのか (なぜ十字架につけられなければならなかったのか) 」という二つの問いに答える形で構成されている。イエスが神の御子としてあがめられ、礼拝されるためには、十字架の道はどうしても避けることのできない道として示されている。
  • ところが、ヨハネの福音書において注目すべきことは、御父が御子を十字架にかけることをよしとされ、御子イエスも自ら進んで十字架にかかったという事実、つまり、御父と御子とのゆるぎない愛と信頼の関係がそれを実現させているという事実である。そして御父と御子から遣わされる御霊によって、はじめて「霊とまことをもって礼拝する」ことが可能となる。御子イエスは御父が「このような人々を礼拝者として求めておられる」ことを語られた。

(2) 新約聖書の歴史書における礼拝

  • 使徒の働きでは、神の働きにおける礼拝の優位性があかしされている。例えば、聖霊の傾注の恵みも、アンテオケにおける世界宣教の計画も、神の民が礼拝をしていたときに神から与えられ、啓示されている。

(3) 新約聖書の書簡集における礼拝

  • ローマ人の手紙では「自分のからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として神にささげること」(12章)こそ、真の霊的な礼拝であるとパウロは述べている。つまり、礼拝は単なる儀式ではなく、明確な一つのライフスタイルであるということである。また、礼拝は、神との関係だけでなく、人との関係(特に、教会における兄弟姉妹)と密接な関係にあることが教えられている。

(4) 新約聖書の預言書における礼拝

  • 新約聖書の唯一の預言書であるヨハネの黙示録において、ヨハネはパトモス島で、御座において、御座におられる方と小羊(これは勝利の小羊)とに、すべての被造物がひざをかがめて礼拝しているヴィションを見せられた。そこでは、礼拝を受けるに最もふさわしいお方に、また最高の権威と力をもって支配される方に、そして最も親しい愛なるお方に、永遠に賛美と礼拝がささげられている。特に、黙示録では、御座における「ホーリー・コーラス」(Holy Chorus)がいかなるものであるかを知ることが出来る。

●礼拝についての聖書神学的構築という課題は、日本の教会においていまだ十分に果たされているとは言い難い。本講義はそうした課題に対する浅薄な一つの試みである。

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