礼拝用語Ps100
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詩100篇 「行く(入る)」 בּוֹא ボー
(カテゴリー:従順)
2節「・・・喜び歌いつつ御前に来たれ (בּוֹא)。」
4節「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ (בּוֹא)。」
Keyword; 「・・に行く、・・に入る、・・に参ります」 come, enter,
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100:2, 4/102:1/118:19, 20, 26/132:7
- 詩100篇の「来たれ」「はいれ」は、「行く」「入る」「進み行く」「参ります」と訳される「ボー」(בּוֹא)の命令形です。この詩篇は礼拝への招きの詩篇です。四つの命令形によって礼拝者を招いています。
(1)「喜びの声を上げよ」(「ルーア」רוּעַ)―これは勝利の叫びを意味します。暗闇の支配から神の愛のご支配の中へ移された者たちの勝利の叫びを上げることです。
(2)「仕えよ」(「アーヴァド」עָבַד)―私たちが救われたのは神に仕える(礼拝する)者となるためです。しかも、喜びをもって仕える者こそ神の子とされた者の証です。
(3)「来たれ」(「ボー」בּוֹא)―いつも、主の前に行くことがすべての解決の道です。
(4)「入れ」(「ボー」בּוֹא)―聖所は贖いの血潮なしには決して入ることのできない場所です。私たちは、イエス・キリストの血潮によって、大胆に入ることができるのです。
- 詩篇73篇には、霊的指導者が神に従わない者の繁栄ぶりを見せられて、妬みを起した様子が記されています。この心の状態を知ったなら多くの者たちがつまずいてしまう状態でした。そんな彼が彼らの最後を悟り得たのは、彼が聖所に行ったからでした。
- ここで「行く」「入る」「参る」という動詞は、私たちが礼拝に行くことと言ってよいでしょう。しばしば礼拝する特権が与えられていても礼拝を休んでしまう人がいます。いろいろな事情があるとは思いますが、説教者の立場からすると、あるいは客観的にみても、礼拝の時に語られたメッセージを最も聞く必要があったのは、その日に礼拝を休んだ人であったということがよくあります。神を恐れつつ、礼拝の場に行けるように祈るべきです。なぜなら、まず、その祈りが御前に届くבּוֹא(bo')ことによって、礼拝において、折にかなった私たちの霊的必要がすでに備えられているからです。
- イザヤ書58章には神が預言者イザヤを通して次のように約束しておられます。
「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『はえある日と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。『わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。』」と。(13~14節)
- 神の子どもとされた者たちが主の家(主の住まい)に行くことを当然の喜びとして、第一に優先されるべき事として、明確な自意を持つことを神は願っておられると信じます。