礼拝用語Ps101
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詩101篇 「心を留める」 שָׂכַל サーハル
(カテゴリー:祈り・瞑想)
2節「私は、全き道に心を留めます。」(新改訳)
Keyword;「心を留める、心を向ける、心を注ぐ」 wise, understand, instruct, careful,
2:10/14:2/32:8/36:3/41:1/53:2/64:9/101:2/106:7/119:99
- 「心を留めます」と訳された「サーハル」(שָׂכַל)は、旧約では60回、詩篇では11回使われています。名詞の「セヘル」(שֶׂכֶל)は、「悟り」「知恵を得る」という意味で、箴言に多く(6回)出てきますが、詩篇では111篇10節の1回のみです。
- 「サーハル」(שָׂכַל)は「心を留めます」(新改訳、口語訳)、「心を向けます」(関根訳)、「心注ぐ」 (尾崎訳)、「心がける」(尾山訳)、「解き明かす」(新共同訳)と訳されています。NIVでは、I will be careful to と訳されています。つまり、作者(ここでは王としての立場にある者)は、「全き道」に心を留め、そこに心を注ぎ、それを解き明かそうとしています。要するに、「全き道」の意味を探ろうとしています。
- 二人の人物―ひとりはイエスの母マリア、もうひとりはヨセフの父ヤコブーを思い起こします。
①「しかしマリアはこれらのことをすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(ルカ2:19)
②「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(同、2:51)
●英語では「思い巡らす」こと、「心に留める」ことに ponder を使っています。ponder という動詞は、ある問題をあらゆる角度からじっくりと考える、熟考するという意味の動詞です。つまり、マリアは、ものごとを偏見によって見ることなく、断定することなく、じっくりとあらゆる角度から、あらゆる面から理解しようとした人でした。これは私たちも見習わなければならない心の構えではないでしょうか。私たちはなんとある種の偏見でものを見、考え、判断しやすい存在でしょうか。イエスの母マリアは、自分には理解できないことを、心に留めて、つまずくことなく、努めてそれを理解しようとする思慮深い人でした。私たちにも学ぶべき点が多いように思います。
③「兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。」(創世記37:11)
●ヨセフの兄達はますますヨセフを憎むようになるのですが、父ヤコブだけは困惑しながらも、このことに心に留めていました。つまり、父ヤコブには神の摂理の不思議さを信じて受けとめる心のゆとりがあったということです。
- 詩篇101篇では、ダビデが「全き道」に「心を留めて」います。かつて主はアブラハムに「あなたは私の前に全き者であれ」と言われました。その「全き者」とは、道徳的、倫理的、知識的な意味での「完全な者」という意味ではなく、どこまでも神を信頼するという意味の、かかわりにおける完全さを意味します。詩篇119篇では「全き道を歩む人々、主のみおしえによって歩む人々は幸いだ」とし、「全き道を歩む」ことと「主のみおしえによって歩む」ことが同義となっています。つまり、「全き道」とは「信頼の道」「愛によるかかわりの道」「神と共に歩む道」です。ダビデはこの道に「心を留めて」つつ、その意味を探ろうとした人でした。