礼拝用語Ps102
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詩102篇 「注ぎ出す」 ׁשָׁפַךְ シャーファフ
(カテゴリー:祈り)
Keyword; 「注ぎ出す」 pour out,
22:14/42:4/62:8/69:24/73:2/79:3,6, 10/102:T/106:38/107:40/142:2
- 「注ぎ出す」と訳された「シャーファフ」(ׁשָׁפַךְ)は、水やいけにえの血を注ぐという意味だけでなく、心の思いー嘆き、悲嘆、満たされない思い、苦しみーを主の御前に注ぎ出すことを意味します。注ぎ出して心の中を空にしたあとに経験する不思議なカタルシス(浄化作用)、心の思いを注ぎ出してはじめて見えてくるものがあります。
- ある人は、「人は苦しむとき、多くの場合、たましいのうめきをことばにすることができません。しかし、詩篇はそのうめきを神への祈りのことばにしてくれます。そして、詩篇を用いて、心を注ぎ出すことができるなら、不思議に心が生き返るという癒しが生れます。なぜなら、神に向かって息を吐き出すことができるなら、神の息である聖霊が人の心を満たすことができるからです。」と述べています。
(高橋秀典著『心を生かす祈り』―「はしがき」、いのちのことば社、2007、を参照)
- その意味では、この詩102篇は心の注ぎ出しを助けてくれる詩篇のひとつと言えます。この詩102篇における作者の心の注ぎ出しは、1節から11節までに記されています。おそらく、バビロン捕囚時において経験した嘆きと言えます。そこで作者は心も肉体も「尽き果て」「打たれ」「やせ衰えて」「しおれて」、やがて自分が消えていく存在のように感じています。しかも、深い孤独感が全体を漂っています。それは神から突き放されたように感じているからです。
- 心の嘆きを注ぎ出したことによって、12節の「しかし」があります。自分の世代においては回復を望むことができないとしても、神は「窮した者、悩む者の祈りを必ず顧み」てくださり、やがて次の世代には、神がシオンを再び建て直して、栄光のうちに現われるということを自分に言い聞かせています。
- 聖書の中で「心を注ぎ出して」祈った女性がおります。その女性の名はハンナ。自分の夫に愛されながらも、子ができないことを悩み、また子を持つ第二夫人のベニンナからも見下げられる苦痛の中で、彼女は主の前に心を注ぎ出して祈りました(Ⅰサムエル記1章)。この祈りが、やがてイスラエルの歴史における王制のかじ取りをする預言者サムエルを産んだのでした。ハンナの祈りは「追い込まれて祈った祈り」ですが、そこに至る背後に神の隠れた不思議な計画と導きがあったのです。つまり、子が生まれなかったことも、またベニンナとのトラブルも、すべては神から出たことだったと言えるのです。
- ハンナは「心を注ぎ出して」祈ったことで、その祈りは彼女の思いをはるかに越えて、歴史的な祈りとして実現しました。まさに神の大いなる不思議なみわざといえます。