礼拝用語Ps137
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詩137篇「たたえる、上げる」 עָלָה アーラー
(カテゴリー:賛美)
6節
「もしも、・・私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、」
Keyword; 「上げる」 登る、上る、引き上げる、あがめる、ささげる、 18:4/24:3/30:3/40:2/47:5,9/51:19/62:9/66:15/68:18/71:20/74:23/78:21/81:10/97:9/102:24/104:8/17:26/122:4/132:3/1335:7/137:6
- 「たたえる」と訳された「アーラー」(עָלָה)は、旧約892回、うち詩篇は23回使われています。「たたえる」と訳されていますが、賛美用語ではありません。「主の山に登る、祭壇にささげる、寝床に上がる」といった、今置かれているところから、より高いところへ上るというイメージの強い動詞で、前後の文脈によってさまざまに訳されています。原文(直訳)では、「もし、私が上げないならば、エルサレムを、~の上に、頭、私の喜び」となっており、それぞれの聖書がこの4節を以下のように訳しています。<もし、私がエルサレムを>・・
「わが最高の喜びとしないなら」(口語訳、岩波訳)、
「わたしの最大の喜びとしないなら」(新共同訳)、
「この上なき喜びとしなければ」(フランシスコ会訳)、
「わが頭上に喜びの冠としないならば」(関根訳)、
「わがすべての歓喜(よろこび)の極みとなさずば」(文語訳)
If I do not consider Jerusalem my highest joy(NIV)
・・等です。ちなみに、137篇4節で「たたえる」ということばを補充しているのは新改訳だけです。
- 「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。」(1節)とあるように、涙の経験は、神のイスラエルの民に対する取り扱いにおいて、少なくとも二つの意味のある実りをもたらしました。一つは、シオン(エルサレム、あるいは神と同義)を「最上の喜びにもまさってたたえること」、もう一つは、「主の教え(トーラー)を喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむこと」(詩篇1:2)です。主に対する最高の賛美とみことばの瞑想は神の民に神のいのちを吹き込むツールです。神に選ばれ、その救いにあずかった私たちひとり一人がこのような思いをもって主を愛しているか問われます。
- バビロンは神に逆らう勢力のシンボルです。そうした勢力の中に置かれているシオニストたちは、神をたたえるべき「立琴を柳の木々に掛けて」(137:2)いるべきではありません。その立琴を手に持って神を賛美し続けなければなりません。また昼も夜も、どんなときにも、神のみおしえであるみことばを聞き、それをじっくりと瞑想していくライフスタイルを築かなければなりません。そうしたシオニストが輩出することこそ、バビロン捕囚の大いなる神の目的でした。
- 「アーラー」(עָלָה)の名詞形である「オーラー」(עֹלָה)は「全焼のいけにえ」burnt offeringsを意味します。それは神の喜ぶ動物の肉の匂いが神のもとに「上る」からです。神は祭壇から上ってくる「香ばしいかおり」をかいで心を和ませたようです。創世記8章21節参照。