礼拝用語Ps46
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詩46篇「やめる、静まる」 רָפָה ラーファー
〔カテゴリー信頼〕
10節「やめよ。私が神であることを知れ。」(新改訳)
10節「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(口語訳)
10節「力を捨てよ、知れ。わたしは神。」(新共同訳)
10節「心を静めて・・知れ。」(関根訳)
10節 Be still, and know that I am God (NKJV)
10節 "Stop fighting," he says, "and know that I am God, (TEV)
Keyword; 「やめる、静まる」 be still, stop, 37:8/46:10/138:8
- 詩46篇には二つの命令があります。この命令は神の招きと言っても良いかもしれません。いつの時代においても、神の子どもに対する重要な神の招きです。一つは8節の「来て、見よ。」、もう一つは10節の「やめよ。知れ」です。この二つは密接なつながりを持っています。まず、「来て」「見る」こと。「見る」は「ハーザー」(חָזָה)という言葉です。多くの人々には隠されていることを霊の目で見ることを意味します。そのための内実は、「静まって」(「ラーフアー」רָפָה)、 神を「知る」(「ヤーダ」יָדַע)ことです。
- 「やめよ」と訳された「ラーファー」(רָפָה)は「失う、消え失せる、なえる、弱くする、静まる、捨てる、手を引く、手放す、猶予を与える、降伏する、抵抗するのをやめる」といった意味があります。忙しく、落ち着きがなく、止まることを知らない活動に満ちた現代社会においては、「静まる」ことは決して容易ではありません。ひとたび「忙しさというブラックホール」の中に吸い込まれるならば、そこから脱出することは容易ではありません。
- 神を信じる者にとって「静まる」ことは、決して消極的なことではなく、むしろ神とのより親密なかかわり、より深いかかわりを持つという積極的信頼を意味します。ゆっくりとした時間の中で過ごす沈黙は、私たちのたましいの刃を研ぎ澄ませ、神から来るかすかな合図に対しても敏感にしてくれます。
- 「ゆっくり・ゆったり、ゆたかに」という「三ゆ」の心の構えが必要です。あるいは、さらにもうひとつ重ねて「ゆるがずに」という「四ゆ」の構えは、神の召しを実現させる心の構えです。しかもそれは、訓練なしには育ちません。「静まること」「沈黙すること」「止まること」「頑張ることをやめること」「力を捨てること」によって神とのより深い交わりが保証されます。その意味で「静まり」は「深まり」と同義です。
- 預言者イザヤは警告しています。「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』しかし、あなたがたは、これを望まなかった。」(30章15節)と。それゆえ、自らの生活をシンプルなものとし、「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(口語訳)という神の招き(命令)を新たな思いで見直したいものです。