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礼拝用語Ps72

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詩72篇「仕える」 עָבַד アーヴァド  

〔カテゴリー服従・従順〕

11節「こうして、・・・すべての国々が彼に仕えましょう。」

Keyword; 「仕える」 serve 2:11/18:43/22:30/72:11 worship 97:7/100:2/102:22/106:36

  • 「仕えます」と訳されたアーヴァド(עָבַד)は旧約聖書ではきわめて重要な動詞(290回ほど)ですが、詩篇ではわずか8回のみです。しかしその名詞「しもべ、奴隷」(servant, slave, officer) エヴェド(עֶבֶד)は800回も使われています。
  • 私たちが神に救われた目的は、神に仕える(礼拝する)者となるためです。このことを忘れたクリスチャンの生涯は喜びがありません。「仕える喜び」ーこれが神の子どもとされた者の喜びです。本当の自由は、自ら、主体的に神に仕えるところにあります。罪の奴隷から解放されて、神の奴隷となること、それは特権と光栄と自由に満ちた生き方です。
  • 「神のしもべ」とは、イスラエルにおいては最高の称号であり、肩書です。神にそのように呼ばれたのは、旧約ではモーセ、ダビデ、そしてダニエルの三人だけです。神に仕える人こそ最もすばらしい理想像的な人でした。そして今、新約時代に生きる私たちの理想像もこれー神のしもべーです。ですから、主イエスは「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」とも(マタイ20章26節)、「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23章11節)とも言われました。
  • イエスは自分のことを「人の子」と呼ばれ、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10章45節)と言われました。私たちも、主にあって、「生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許され」(ルカ1章75節)ているのです。「主の御前で仕える」とは、愛の奴隷となることです。
  • 出エジプト記21章には不思議な奴隷の話があります。神の民の一人が、もし破産して、借金を返すことができない場合、自分の身を売って奴隷になります。その場合、6年間は主人のもとで働かねばなりませんが、7年目には無代価で解放しなさいという神の律法があります。ところが7年目の時に、そのしもべが「私は去りたくありません。いつまでもこの主人のもとで仕えたいのです。」と言ったとしたら、そのしもべと主人との間に新しいかかわりが生まれます。その場合、主人は彼を連れて祭司のところに行き、キリでその奴隷の耳たぶを柱のとこに刺し通します。この手続きを行ったならばその奴隷はもはや終身その主人の仕える者となるのです。
  • 余程、すばらしい主人でなければ、終身、主人の奴隷になることを自分から選ぶ者はいません。ところがそんな奴隷がおりました。使徒パウロがそうです。彼は自分のことをいつも「キリスト・イエスのしもべパウロ」と紹介しました。なぜなら、すばらしい主人であるイエス・キリストに出会ったからです。

              

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