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礼拝用語Ps73

詩73篇(1) 「ともにいます」 עִמָּך インマーク

〔カテゴリー信頼〕

  • 23節「しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。」(新改訳)
  • 24節あなたがわたしの右の手をとってくださるので、常にわたしは御もとにとどまることができる。」(新共同訳)

Keyword; 「ともにいます」 with, before, beside

◆インマークעִמָּך(immak)は動詞ではありません。前置詞のイムעִם(im)に、人称代名詞の二人称 ך- (あなたの)がついたものです。前置詞 עִם(`im)は、「~とともに」with, 「~の前に」before, 「~のそばに、傍らに」beside, などを意味します。ここでは接尾語に「あなた」がついていることが重要な点です。

◆詩73篇には三つのעִמָּך(immak)があります(22, 23, 25節)。さらに、もう一つ5節に本来の前置詞 עִם(im)が見られます。この詩篇で重要なのは前の三つのעִמָּךです。

  • 22節「私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。」
  • 23節「しかし私は絶えずあなたとともにいました。」
  • 25節(原文直訳)「あなたが傍にいてくれるので、地では(あなたの他に)慕うものがない。」

◆旧約聖書の中で神はご自身を「インマヌルの神」として啓示されましたが(イザヤ7:14, 8:8)、インマヌエル עִמָּנוּ אֵל(`immanu-el)とは「神ともにいます」の意味です。

◆詩73篇では、神の指導的立場にある者が、神に背を向けている者たちが富を増し、繁栄している姿を目にし、なんら苦しむことなく安らかに生きているのを見て、ねたみを持ち、そのことで自責の念に苦しんでいる姿をみることができます(1~16節参照)。もし、そんな真相を若い者たちが知ったならば、つまずくに違いないとさえ思いました。そんな自分を「あなた(神)の前に獣のようでした」(22節)と述懐しています。

◆ところが、不思議なことに、そんな自分にもかかわらず、「私は絶えずあなたとともにいました。」とも言っているのです。自分の肉の弱さにもかかわらず、絶えず神とともにいる自分―それは、神が、私の右の手をしっかりとつかまえられたからだと言っています。「私の右の手をしっかりとつかまえられた」とは、自分が神によってしっかりと愛されているという表現です。この事実が作者をして悟りを得ることになり、勝利が与えられます。

◆作者は、28節で「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」と告白しています。神に愛されていること、それは神に引き寄せられて「神の近くにある」ことを意味します。これが作者にとって、しあわせなこと(「良いこと」トーヴטוֹב) でした。

◆「近い」とは関係概念です。神の愛による引き寄せによって、はじめて、私たちは神との近しい(親しい)かかわりを持つことができるのです。「あなたの前に、あなたとともに、あなたのそばに」いること、神に近くあることーそれが「良いこと」、つまり「幸いなこと」なのです。

詩73篇(2)「望む」 חָפֵץ ハーペツ

〔カテゴリー渇望〕

  • 25節「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」 (新改訳)
  • 25節「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。」(口語訳)

Keyword; 「望む、慕う、愛する、欲する、気に入る、喜ぶ」delight, desire, please,

◆25節は「私はあなただけを望みとし、あなただけを慕う」という強い意志を反語的に表現しています。「あなただけを望む」の「望む」という動詞はハーペツחָפֵץ(chaphets)が使われています。ハーペツחָפֵץは旧約では74回、詩篇では17回ですが、そのうち神の恩寵として用いられているのは8回(18:19/22:8/37:23/41:11/51:6, 19/115:3/135:6)で、3回(73:25/112:1/119:35)が礼拝用語として用いられています。詩篇においては、「主が私を喜びとされた」(18:19)という恩寵の方が、私が主を喜びとし、慕うことよりも圧倒的です。

◆作者が聖所に入ることによって、つまり静かに神を瞑想することによって、神の愛に再び気づかされ、天においても地においても、主のほかに慕うべきお方はいないことをさとったのです。そもそも作者が見るべきお方から目を離して、周囲を見たことから霊的逸脱が起こってしまいました。なにを見たのかと言えば、それは3節にあるように、悪者の栄えている姿でした。羽振りのよさ、すややかな顔、でっぷりした体、深刻な悩みもなく見える人々を見て、作者の心の中に「嫉み」が生まれました。そうなったとき、神の臨在感は希薄となり、むなしく感じられたのです。

◆しかし「聖所に入る」ことによって、霊的にものごとを見えるようになりました。現代は、目に見える情報、耳から入る情報など、いろいろなところから私たちに否応なく飛び込んできます。現代のような高度刺激社会の中で、目にするもの、耳にするものによって翻弄させられます。そうしたものから私たちの心をまもるためには、詩73篇の作者のように、自らの意志で「聖所に入る」決意が必要です。つまり、目には見えない方を信じ続けていく信仰の歩みにおいては、「静まる力」が必要なのだと信じます。主の親密で喜びに満ちた交わりを楽しみながら、天においても、地においても、「私はあなたのほかにだれをも望みません。あなだたけを慕います」と言わせるのは、まさに聖霊のなせるわざです。

◆神を「追い求める力」とともに、主の前に「静まる力」が必要です。それを可能とする道は、主イエスが「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」と約束されたように、共同体的な取り組みが求められていると信じます。これは秘義です。いつの時代でも、霊的な回復をもたらされた時代には、必ずや、こうした取り組みがなされているからです。

              

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