礼拝用語Ps95(2)
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詩95篇(2)「ひざまずく」 בָּרַךְ バーラフ
(カテゴリー: 従順)
6節「(来たれ)・・私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。」(新改訳)
Come, let us bow down in worship, let us kneel before the Lord our Maker; (NIV)
Keyword; 「ひざまずく」 kneel 95:6,
- 「ひざまずこう」と訳されたバーラフבָּרַךְ(barakh)は、詩篇ではここ1回限りです。旧約全体でも他に2箇所しか使われていない動詞です。「賛美する」「祝福する」という意味のバーラフבָּרַךְ(barakh)とは同音異語です。
- 旧約でこの動詞が使われている例は、第一に、イサクの妻を捜すために使わされたアブラハムのしもべが、ある町で夕暮れ時、女たちが水を汲みに出るころに、町の外の井戸のところにらくだを伏させました。らくだを「伏させる」というところにバーラフבָּרַךְが使われています(創世記24章11節)。らくだが休む時は、ひざを屈して休みます。
- もう一つの例は、ソロモンが神殿奉献の時に、祭壇の前で、「ひざまずいてבָּרַךְ、両手を上げて」主に祈りました。この祈りがささげ終わったとき、火が天から下ってきて全焼のいけにえが焼き尽くされ、主の栄光は主の宮に満ちたために、祭司たちが主の宮に入れることができませんでした。イスラエルの人々はみな、この光景を見たとき、それまで起立していた彼らもひざをかがめてכָּרַע(kara`)、顔を敷石につけて、伏して拝んでשָׁחַה(shachah)、主をほめたたえました。(Ⅱ歴代誌6章12~7章3節参照)
- 面白いことに、ここ(Ⅱ歴代誌6章12~7章3節)には、詩95篇6節にある礼拝行為を表わす三つの動詞、「伏し拝む」シャーハーשָׁחַה(shachah)※、「ひれ伏す」カーラーכָּרַע(kara`)、「ひざまずく」バーラフבָּרַךְ(barakh)のすべてがここに使われています。このような礼拝行為が旧約の人々の礼拝の姿であったことを知ることができます。
- 礼拝と行為は、本来、礼拝する者の神に対する心を表わすものでなければなりませんが、実際は必ずしもそうではなかったことをこの詩95篇の後半(7節以降)は私たちに教えようとしています。「・・きょう、もし御声を聞くなら、・・・の日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と。
- 最近、挨拶をすることを奨励する運動がなされています。人と人とのかかわりにおいても、挨拶をきちんと交わすことができていない懸念からだと思います。挨拶とは、まず自ら相手に対して「心を開く行為」と言えます。自らの心を開くことで、相手とのかかわりを築くことが始まります。実は、礼拝の本質もここにあります。つまり、真の礼拝とは、神の声を聞くこと、そして信じて聞き従うことです。このことと、礼拝の行為が一致するとき、そこには礼拝者としての真の麗しさ、真の美しさがあるのではないかと思います。
※
「伏し拝む」シャーハーשָׁחַה(shachah)については詩66篇を参照。