****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

祈りとみことばへの専心

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9. 祈りとみことばへの専心

【聖書箇所】 6章1節~15節

ベレーシート

  • 神の支配する世界においては、一つの危機が新たな展開の扉を開く局面となるだけでなく、教会が何を大切にし、何を優先すべきかといった事柄もおのずと問われるのです。初代教会において、はじめて、内部からの問題が発生します。その問題に対処するために7人の者が選ばれますが、その中に選ばれたステパノという人物が教会の最初の殉教者となり、それがキリスト教会の歴史を大きく動かし、拡大していく契機となっています。神のミシュパート(統治)は見事と言わざるを得ません。

1. 教会に発生した一つの内部問題とその対処

  • 教会内ではじめて起こった問題は、教会を分裂しかねない大きな問題でした。それは「ギリシャ語を使うユダヤ人」のやもめたちが、「ヘブル語を使うユダヤ人」のやもめたちに対して苦情を申し立てたからです。食卓の問題は、人間にとって生存にかかわる問題だけに重要です。単に、「食べ物のことで」というわけにはいかない問題です。
  • 配給を担当していた者はおそらくヘブル語を話す者たちだったかもしれません。言葉によるバリヤ(壁)が生じています。この問題に対処するため、12使徒たちは弟子たち全員を呼び集めました。「全員」というところに事の問題の大きさを感じさせます。そして、使徒たちは次のように提案したのです。

【新改訳改訂第3版】使徒6章2~4節

2 私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。

  • 使徒たちの提案は全員の承認するところとなりましたが、この提案にはとても重要な事柄が提示されています。

(1) 祈りのみことばの専心性

  • 問題に対処する原則が提示されています。それは「祈りとみことばの専心性」ということです。どんな問題が起こったとしても、教会の土台となる働きを決して二次的な位置に置くことをしないという意志決定です。特に、みことばの務めをゆだねられている者はその自覚が必要です。
  • 今日、「祈りとみことばに専心」できる教役者はどのくらいいるでしょうか。やっとのことで聖日のメッセージの準備をして語っているだけでは、現状維持できても、みことばからいのちの息吹をもたらすことはできません。みことばそのものが、いのちの輝きを放ち、新鮮さと深みをもって語られるためには、多くの時間を、そのことに専心できる環境を持っていなければなりません。このことが「ただひとつのこと」を求めたダビデの霊性であり、ベテスダのマリヤの霊性であり、主イエスの霊性なのです。使徒たちはその霊性を受け継ぎ、それに専心することを自ら選び、そしてそれを教会に提案して承認されたことはとても重要なことだと信じます。
  • 聖書の世界の知識は膨大であり、その知識を神の視点から応用できるためには知恵が必要です。その知恵は祈りによって与えられます。祈りといっても、ただ単に「主よ。・・してください」式の祈りではなく、むしろ静けさの中で集中した神との親しい交わりを意味します。みことばを預かる者にとって瞑想の訓練は必須です。教会に新しいぶとう酒をもたらし、刷新させていくためには、「祈りとみことば」を優先することは余りにも当然のことなのです。使徒たちの多くは無学のただ人であったわけですから、だれよりも聖書のみことばを深く学び、味わう必要があったのです。教会の教えの土台を確固とするためには、それ相当のレベルか要求されたはずです。

(2) 御霊と知恵に満ちたステパノの選出

  • 教会の問題に対処するために選ばれた七人の者たちは、「聖霊と知恵に満たされている者たち」、あるいは「信仰と聖霊に満ちた人たち」でした。その一人であるステパノは「恵みと力とに満ち」、「知恵と御霊によって」語る人物でした。その彼にスポットが当たります。彼は教会の歴史における最初の殉教者となった人物ですが、殉教者になりうるほどの資質をもっていたということです。もし「殉教者の賜物」というものがあるとすれば、まさしくステパノはその賜物を与えられていた人物といえます。
  • 使徒6章では、彼が単なるお世話係り(執事、あるいは助祭)ではなく、使徒的なレベルで不思議なわざとしるしを行なう賜物をも与えられており、ある事件を通して、彼がみことばの知識と知恵のレベルにおいても人並み以上であったことが明らかにされる事件が起こります。これは偶然ではなく、神の必然的な導きによるものであったと言えます。なぜなら、ステパノの殉教によって、福音がエルサレムからユダヤ、サマリヤ、そして地の果てにまで伝えられていく契機となったからです。やがて使徒となるパウロも彼の死を目の当たりにしていました。
  • ステパノはリベルテンの会堂に属するユダヤ人(奴隷となっていたユダヤ人が解放された人々)と議論する羽目になりますが、その議論にリベルテンの人々は対抗することができなかったのです。なぜ対抗することができなかったかと言えば、「彼(ステパノ)が知恵と御霊によって語っていたから」(使徒6:10)です。ルカの福音書22章15節にはこうあります。
    「12 人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。13 それはあなたがたのあかしをする機会となります。14 それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。15 どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

2. 御使いの顔のように見えたステパノ

  • 議論で対抗することのできなかったリベルテンの会堂に属する人々は、民衆や長老たちや律法学者たちを巻き込んでまで、ステパノを捕らえ、議会にひっぱっていきます。これは尋常とは思えないきわめて異常な行動です。しかしそこに神のご計画が敷かれていたのです。その証拠が、「彼の顔は御使いの顔のように見えた」という不思議な表現です。
  • 「彼の顔は御使いの顔のように見えた」とはどういうことでしょうか。思うに、その顔とは、
    (1) 人を恐れず、しかも権威をもって語る毅然とした表情をもった顔
    (2) 不穏な空気の中でも、平安に満たされ、希望と確信に満ちたおだやかな顔ではなかったと思います。これが「殉教者の賜物」なのかもしれません。殉教者の血、あるいは殉教的精神は長きにわたって教会に大きな霊的影響を与えると言われています。

2013.2.21


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