****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

祝祷

第31日 「ヘブル人への手紙の『祝祷』」 

はじめに

  • 昨年の11月23日からはじまった主日礼拝での「ヘブル人への手紙」の講解説教は、本日をもって最終回となります。今日の説教で31回目です。31回は丁度、一月分に当りますので、説教のエッセンスをしるした「一カ月で味わうヘブル書」をまとめたいと思っています。
  • 多くの霊想の本を書いたアンドリュー・マーレーという人の本のほとんどが「一つのテーマ」を31回分にわけて記しています。31という数にこだわっているわけです。そんなこだわりが一つや二つあっても面白いと思いますね。彼の本の中で私が特に影響を受けたのは、「キリストにとどまれ」という本です。その中でマーレーは二つのイエスの招きを上げていて、一つは「わたしのもとに来なさい。」という招き、もう一つの招きは「わたしにとどまりなさい。」という招きです。この二つの招きをまとめると、「わたしのもとに来て、わたしにとどまりなさい。」ということになります。これはいつの時代にも色あせることのない、意味の深いイエスの招きです。この招きに私たちが日ごとに従うなら、キリストのいのちはその人のうちに流れていき多くの豊かな実を結ぶに違いありません。キリストにとどまることの大切を深く教えられる一冊です。このテーマは後にヘンリー・ナウエンの「いのちのしるし」という本で私のうちにさらに補強されることになりました。このように多くのすぐれた霊想の書物に出会う(「読む」というよりも「出会い」を強調したい)ことは、私たちに対する神の導きなのです。

1. ヘブル人への手紙の「祝祷

  • さて、今朝は、ヘブル人への手紙13章20, 21節にある「ヘブル人への手紙における『祝祷』について目を留めたいと思います。まずはそこを見てみましょう。
  • 20 永遠の契約の血による羊の大牧者、 私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、21イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、 あなたがたがみこころを行うことができ るために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。
    (厳密には、ここまでが「祝祷」―神が人々に対して祝福してくださるようにという祈りーです。あとはキリストへの賛美がつけ加えられています。)
  • 祝祷という祈りは、礼拝の一番最後に牧師が手を挙げて会衆のために祈る祈りです。私の場合はピアノを弾きながらですので、手をあげて祝祷することができませんが、礼拝の最後の『頌栄』―これは三位一体である神にささげる賛美のことですーの後にくる祈りを「祝祷」と言っています。
  • 普通一般に教会で用いられている祝祷は、コリント人への手紙第二の一番、最後にあります。そこにはこうあります。「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」-なぜこの祝祷が教会で用いられているかというならば、そこに三位一体の神のペルソナがすべて登場している完璧な祝祷であるゆえです。
  • 他の祝祷を見ても、このような三位一体的な祝祷はありません。ちなみに、パウロの手紙などにみられる祝祷をいくつかあげてみましょう。

    (1) ローマ人への手紙では15章33節にこうあります。「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。」-実に完結です。これ以上簡潔な祝祷はありません。
    (2)コリント第一では15章23節に「主イエスの恵みが、あなたがとともにありますように。」-平和の神の部分が「主イエスの恵み」に置き換わったかたちです。
    (3)テサロニケ書では「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」-キリストがつけ加えられています。
    (4)ガラテヤ書とピリピ書では「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と
    ともにありますように」となっていて、さらに「霊」ということばが加わった形です。
    (5)コロサイ書、テモテ書第一に至っては、「主イエス」ということばが省かれて、「どうか、恵みがあなたがたとともにありますように」とあるだけです。

  • このように見て来ると、ヘブル書の「祝祷」は少し変わりものです。その変わり種の一つは、まず「やたらと長い」ということです。それから、もう一つの変わり種は「あなたがたとともにありますように」というフレーズがないことです。
  • ヘブル書の祝祷はイエス・キリストと神(父なる神のこと)名前が出てきていますが、聖霊の名は出てきません。祝福の主語も「平和の神」、すなわち御父である神になっています。御父はすべての祝福の源である方です。この神が「イエス・キリストを通して、あなたがたを完全なものとしてくださるように」というのが祝祷の根幹となっています。他の祝祷と比べると、特異な祝祷ということになります。今朝はこの特異な祝祷について考えてみたいと思います。

2. 神を説明している3つのキーワード

  • まずは20節のみに注目しましょう。そこには、「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が」とあります。
  • 皆さんは、聖書が神の言葉であると信じておられるわけですが、その神の言葉である言葉は新約聖書は、ギリシア語によって書かれていますが、このギリシャ語は一見、パズルのような並び方をしています。たとえば、20節を原典の置かれた並べ方で、直訳してみるとどうなるか見てください。

どうか 平和の神  死者の中から導き出された方  羊の大牧者
永遠の契約の血によって   私たちの主イエス

  • さあ、これを文章になるようにこれをつなげて読みなさいということになります。ですから。翻訳する人によって、ことばの並び方が違ってくるわけです。日本語でわかるようにするためにことばをつけ足したりしながら、わかるように訳したりもするわけです。そのようにして出来上がったのが、様々な聖書の訳です。もう一度、新改訳聖書でみてみましょう。

    20 永遠の契約の血による羊の大牧者、 私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、21イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、 あなたがたがみこころを行うことができ るために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。

  • 主語は「神」です。その神についての修飾語がたくさんくっついているわけです。「神」の前にあることばー「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の」―これが「神」にかかる修飾語です。そこには神を説明する4つのキーワードがあります。

    (1)平和
    (2)永遠の契約の血
    (3)羊の大牧者
    (4)イエスを死者の中から導き出された(復活)

  • なにゆえに、ヘブル人への手紙の著者はこれだけの修飾することばを「神に」つけ加えたのか、あるいは、つけ加える必要があったのか、という<問いかけ>をしながら、これらの一つひとつのキーワードを取り上げてみたいと思います。

(1) 平和

  • まずははじめに「平和」ということばを見てみましょう。イエスがこの世に誕生された時、最初にその知らせを聞いたのはだれだったでしょう。そうです。羊飼いたちです。彼らはいろいろなところを転々と野宿しながら生活していた人々でした。その彼らに主の使いが現われ、「恐れることはありません。すばらしい喜びを知らせに来たのです。きょう、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。飼葉おけに寝ておられる幼子がそのしるしです。」と伝えました。その御使いと、さらに多くの天の軍勢が現われて、神を賛美しました。その賛美が聖書にしるされています。

万軍賛歌
いと高きところに栄光が 神にあるように 
地の上に平和が みこころにかなう人々にあるように (ルカ 2:14)

  • 「荒野の果てに・・グローリヤ インエクセルシス デオ」―クリスマスで歌われる有名な歌ですが、今年はじめて、この歌が途中半端な歌であることを知りました。なぜなら、万軍賛歌の前半だけしか歌われていないからです。後半の「地の上に平和が・・」という部分がとても大切なのに、省かれているのです。神から遣わされた幼子イエスは、まさに、地の上に平和がもたらされるために遣わされました。神のおられる天と人々が住む地に、平和をもたらすために遣わされたのです。御子イエスは平和の福音を伝えるために来られたのです。このことによって天において神の栄光がたたえられるべきなのです。
  • ですから、ヘブル書の祝祷に話を戻しますが、「平和の神」という表現は、神様が「争うことが嫌いで、平和を好む神様だ」という意味ではなく、「御子イエスを遣わすことによって神と人との間に平和を作ろう(築こう)とされた神だ」という意味です。御子イエスの存在とその働きによって、神と人、あるいは人と人との間に平和を実現された神という意味です。ですから、「平和の神」という表現は、御子イエスの存在と深く結びついているのです。そこで、この御子イエスのことについての説明がつけ加えられているのです。

(2) 永遠の契約の血

  • そこで「永遠の契約の血」という表現を見てみましょう。この表現もイエス・キリストと深い関係があれます。この表現には「永遠の契約」と「血」という二つの要素があります。前半の「永遠の契約」という表現は、変わることのない契約、永遠に続く契約という意味で、イエス・キリスト以前の「旧い契約」に対して、イエス・キリストによって交わされる「新しい契約」のことです。「旧約聖書」と「新約聖書」という意味は、「旧い契約」と「新しい契約」という意味です。
  • 新約聖書には「契約」というディアセーケーという言葉が33回使われていますが、そのうちの17回(つまり半分以上)がヘブル書で使われています。英語でカベナントと言いますが、ヘブル書は「新しい契約」について他以上に語っているからです。
  • その中に2回ほど、ディアセーケーを「契約」という言葉ではなく、「遺言」ということばで訳されています。遺言とは、それを作成した人が死んで初めて効力持ちます。つまり、「新しい契約」はイエス・キリストが死んでのちに初めて効力を持つ契約なのです。イエス・キリストが死なない限り、新しい契約は有効にならないのです。
  • そこでヘブル書はこの「新しい契約」に「血」ということばをつけ加えることで、その新しい契約が永遠に有効となるという意味で「永遠の契約の血」と表現しているわけです。最後の晩餐のときにイエスが語られたことばを各福音書から拾ってみましょう。
  • 「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」 (マタイ26:28)
  • 彼らはみなその杯から飲んだ。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」 (マルコ14:24)
  • 「この杯は、あなたがたのために流される わたしの血による新しい契約です。」 (ルカ22:20)

これらのことばを要約すると次のようになります。
①杯は、イエスの血を指し示し、死んでから有効となる新しい契約を意味すること。
②この血は「罪を赦すためのもの」である。
③この血は「多くの人々のために流される」ものである。

  • イエスが十字架につけられる前の晩に、杯から飲んだぶどう酒は、やがて「罪を赦すために多くの人々のために流れるべきイエスの血潮」を、弟子たちが信じて受けるべきことを象徴するものでした。
  • イエスの流された血についての効力は

    キリストの血のもつ効力

(3) 羊の大牧者

  • この表現は羊と牧者の関係を表わすものですが、単にイエスが十字架の上で死んで血を流されたというだけでは、確かに、人々の罪を赦す力はありますが、平和を作りだしていく能動的な関係ではありません。十字架の血潮は救いの消極面です。救いのより積極的な面は、イエスが死者の中からよみがえらされることによって、私たちと主イエス・キリストのかかわりにおいて、永遠に「羊と大牧者」にたとえられる関係となることです。
  • ですから、「羊の大牧者」という表現と「イエスを死者の中から導き出された」(復活)という表現は密接に結びついているのです。新約聖書に描かれている羊と羊飼い(牧者)のかかわりを見てみましょう。羊飼い(牧者)の羊に対するこの上もない熱い思いがしるされています。

    ①イエスは・・・群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわそうに思われた。 (マタイ9:36)
    ②わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。 (ヨハネ10:10)
    ③あなたがたは、羊のようにさまよっていまし たが、今は、自分のたましいの牧者であり
    監督者のもとに帰ったのです。 ( Ⅰ ペテロ2:25)
    ④わたしは良い牧者です。良い牧者は羊の ためにいのちを捨てます。わたしは良い牧者 です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
    (ヨハネ10:11 , 14)

詩23篇のダビデの告白
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

  • このような偉大なすばらしい牧者(羊飼い)を、私たちは現実に持っているのです。羊は羊飼いから離れで生きていくことはできないのです。そのことさえも知らずにいるのが、羊の習性です。私たちは弱く、わきまえのない、愚かな羊です。自分勝手な道にいつでも迷い込んでしまうような者です。しかし、そんな羊をかわいそうに思い、羊のためにいのちを投げ出してくださった羊飼いこそイエス・キリストです。この方が私のこれからの永遠の歩みにおいて、導いて下さるのです。私たちはこの偉大な牧者に導かれているでしょうか。ヘブルの著者は、「このような偉大な牧者を私たちのために備えてくださった神が、私たちをして神のみこころの中に生かしめて、完全な者にしてくださるように」と祈っているのです。
  • ここに記されている「完全な者」とは、道徳的な意味において、知識的な意味においての「完全さ」ではありません。アブラハムに対して言われたような「わたしの前に全き者であれ」と言われた意味と全く同じです。その意味するところの「全き者」とは、「完全な者」とは、神を私たちの牧者である主イエス・キリストを信頼することにおいてなのです。日々の歩みにおいて、その信頼の度が益々強められることが私たちにとって、きわめて大切なのです。

おわりに

  • ヘブル書の祝祷の特徴は、イエス・キリストの十字架と復活の出来事(その事実)にしっかりと立っている祝祷です。イエス・キリストの十字架と復活の事実は、神の平和の福音を生きるきわめて重要な土台です。すべてはこの事実から出発しているからです。この事実を私たちは決して忘れてはなりません。十字架と復活の事実は、神の永遠の愛が絶えずわき出している泉なのです。イエスが私のたちに死なれ、三日目によみがえられたことは、私たちひとりひとりを、永遠の「新しい契約」の中に生かして下さる保証なのです。


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