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神から与えられた賜物としての信仰

52. 神から与えられた賜物としての信仰を働かせる

【聖書箇所】 17章1節~19節

はじめに

  • ルカの福音書17章1節~19節までを取り上げます。イエスのここで語った対象は「弟子たち」です。ここには4つのことが記されています。一見、バラバラに見えるこれらの4つの事柄が文脈の流れにおいてどのようにつながっているのかを考えてみたいと思います。(※脚注1)
  • まずは、その4つの事柄とその要点と思われるものは以下のとおりです。

1. 4つの事柄とは

(1)1~4節
つまずかせること(※脚注2)は忌まわしいことであるが、それが起こるのは避けられないとあります。そうでありながら、つまずきを起こさないように自分に気をつけなさいと語ると同時に、もし人につまずきを与えた者が悔い改めるなら、その者を完全に赦しなさいというイエスの教えが記されています。

(2)5~6節
そのイエスの教えは弟子たちにとって一見無理難題のように思いました。そのためには「自分たちの信仰を増してください」と弟子たちはイエスに嘆願します。それに対してイエスは、信仰は量ではなく、あるかないかのどちらかであり、「主によって与えられる信仰」が、たとえからし種ほどに小さくあったとしても、大きな力が働くということを語られました。

(3)7~10節
そのような信仰が与えられてなすべきことをしたとしても、「なすべきことをしただけです」と言うべきだ、とイエスは「主人としもべの関係のたとえ」をもって語っています。

(4)11~19節
10人のらい病人がいやされたにもかかわらず、神に感謝するために戻ってきたのはなんとひとりだけでした。この人はイエスのことばを信じて行動し、そしていやされました。彼は誇ることなく、この人がなすべきこと、つまり、神をたたえ、イエスに感謝することをしたのです。このように「感謝する信仰」があなたを直した(σωζω)とイエスは称賛しています。ここでは「あなたの信仰」と言っています。ただし、弟子たちが5節で言った「私たちの信仰」とは、質の異なる信仰を意味しています。


2. コンテキスト(文脈の流れ)の中で見えてくるテーマとはなにか

  • ルカの福音書17章1~19節は、文脈を読み取ることを訓練する上で重要なテキストです。一見のなんの関連性もないように思える箇所を、じっくりと読むことで見えてくるものがないかを考えます。
  • そのように読むことで見えてくる、1~19節までのテーマ(強調点)とは何でしょうか。

私が思うに、「信仰とは神からの賜物だということ」です。弟子たちのいう「私たちの信仰」ではありません。神から与えられた信仰はたとえ小さなからし種ほどのものであったとしても、その信仰は私たちの能力を越えて働きます。つまり、不可能なことを可能にしていく信仰です。しかしそれは神からの賜物であり、もしその信仰が働いたとしても、信仰を与えられた者は、「私はなすべきことをしたまでです」という謙遜な態度をもつことが肝要だということを、イエスは弟子たちに教えられたように思います。

  • 信仰が神からの賜物であるという教えは使徒の働きの3章にあります。
    生まれつき足の不自由な人に対して、使徒ペテロが「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手をとって立たせたとき、たちまち彼の両足と両くるぶしが強くされ、飛び上がりながら立ち上がりました。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しながら、使徒たちと一緒に宮(神殿)の中に入って行きました。これを見ていた人々は驚きました。そのときに使徒ペテロが何と言ったかが重要です。

    使徒3章12節
    「イスラエルの人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。・・・・

    イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに(信仰に基づいて)、・・この人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を・・完全なからだにしたのです。

    使徒4章10節
    「・・この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、・・・イエス・キリストの御名によるのです。」

  • 上記にあるペテロのことばの背景には、使徒ペテロはルカの17章あるイエスとの問答の中で、「信仰について」イエスから教えられていたのです。イエスの御名を信じる信仰がたとえからし種ほどであったとしても、イエスの御名の力がイエスによって与えられる信仰という通路を通して働くことで、不可能を可能にする想定外の出来事をもたらすのです。
  • しかも、先のルカの福音書17章で、イエスのもとに帰ってきたサマリヤ人に対して、イエスが「立ちなさい。」と言いました。この「立ち上がって、行きなさい」の「立ち上がる」ということばは「アニステーミ」ανιστημιの命令形「アナスタス」ανασταςで復活用語です。長い間、社会から疎外され、親族からも離れて、隔絶されて生きなければならなかった者が再帰できるばかりではなく、主とのかかわりを与えられて、イエスのよみがえりのいのちによる新しい歩みをするために立ち上がる(よみがえる)ように呼びかけられたことばです。このことは私たちに大きな希望をもたらしてくれるのではないでしょうか。
  • 毛虫がやがて綺麗な蝶となるように、小さなからし種がどの木よりも大きくなるように、賜物としての信仰の種もやがて芽を出し、成長して、私たちの思いをはるかに越えた結実をもたらしてくれるからです。

(※脚注1)
「霊性の回復セミナー」No.17の「文脈に隠されている真理を掘り起こす」も参照。

※脚注2
「つまずき」と訳されたギリシャ語は「スカンダロン」σκάνδαλονです。鳥獣などを捕らえるわな、つまずき、人に罪を犯させる(罪へ誘惑する)者、人に罪を犯させる物やその原因、を意味します。ルカ17:1の「スカンダロン」は最後の意味で使われています。英語の「スキャンダル」(scandal)の語源です。

2012.5.17


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