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神が備えた日々の糧としてのマナに飽きるとき

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民数記の目次

9. 神が備えた日々の糧としてのマナに飽きるとき

【聖書箇所】 11章1節~35節

はじめに

  • 民数記1~10章までは、神の英知によって定められた秩序がイスラエルの民に告げられました。その秩序はイスラエルの民のすべての生活の領域におよぶものでした。ひとりひとりの家系を登記し、それぞれの部族が指定された場所(旗のもとに)に宿営し、礼拝の仕方や過越の祭りについても教えられました。神の臨在を象徴する「雲」が動けば、それにしたがって旅立つ、とどまればそこに宿営すること。また旅立ちのの順序さえもすべて神が定めました。
  • 人々がいろいろと話し合って決めるのではなく、神が定められた秩序に民がすなおに従うことが求められたのです。神の秩序には人間の知恵が及ぶことができない、はかりしれない英知が隠されているのです。そのことを認めない限り、神の民はひとつの民として、その存在をあかし、またその機能を果たすことはできないことを教えています。やがて、モアブの王バラクがこのイスラエルを呪うために、預言者バラムを雇いますが、バラムはこのイスラエルの陣営を見たとき、その麗しさに感嘆したほどでした(民数記24:5, 7)。

    なんと美しいことよ。
    ヤコブよ。あなたの天幕は。
    イスラエルの幕屋は。
    ・・・その王国はあがめられる。

  • 外観的な目に見えるものでした。民数記11章では、シナイの荒野からはじめて旅立って三日の道のりを行った所で、人間の貪欲な思いが姿を現わして多くの者たちが死ぬという出来事が起こりました。聖書はその場所の名を「キブロテ・ハタアワ」(קִבְרוֹ־הַתַּאֲוָה)、つまり「欲望の墓」と呼んだと記しています。そんな結果をもたらした真の原因はどこにあったのでしょうか。使徒パウロは荒野での出来事は「私たちへの戒めのためです」と語っています(1コリント10:6)。とすれば、今日の私たちが教訓とすべきことは何なのでしょうか。そこに瞑想のポイントを当ててみたいと思います。

1. 不平の根にある問題

  • 11章には、民たちの不平だけでなく、モーセ自身の不平も記されています。いずれも主は聞かれます。モーセの不平は自分ひとりに課せられている責任のゆえに、民のすべての不平不満が自分のところに来ることに耐えられなくなり、そのストレスのゆえの不満でした。「やってられるか」という思いだったと思います。主は長老たちの中から70人の者を選んで、モーセに与えられている霊を分かち惚状態で預言させますが、聖書は「それを重ねることがなかった」(25節)とあります。つまりその場限りで、続くことはなかったという意味です。やはり神の秩序は神が選んだモーセを通してのみということであったのです。このことに対して、モーセの姉ミリアムは妬んだことが次章で扱われます。
  • イスラエルの民たちの不平は「ああ、肉が食べたい」というものでした。「肉」(「バーサール」בָּשָׂר)ということばがこの章だけでも8回使われています。「肉」だけでなく、彼らがかつてエジプトで食べていたもの(魚、きゅうり、すいか、にら、たまねぎ、にんにく)が食べたいと言ったのですが、それが「肉」で代表されています。「肉が食べたい」というその真意は、神が日々与えてくださっている「マナ」に飽きてしまったからです。聖書は「何もなくて、このマナを見るだけだ」と記しています。
  • 「激しい欲望にかられた」民の要求を神は聞き入れ、宿営の周りに有り余るほどのうずらの肉を与えました。彼らはそれを貪欲に食しますが、そのために疫病にかかり多くの死者を出してしまいました。問題の発端は、神が彼らのために与えた「マナ」に彼らが飽きたことです。日々、必要なだけ与えられる不思議なマナの霊的真意に気づかなかったことです。

2. マナの原則とその霊的真意とは

  • 神の民が「マナ」を与えた原則はなんだったのでしょうか。また、神の民たちがそのマナに飽きて「肉が食べたい」とする霊的真意は何でしょうか。
  • 神が民に最も必要な日々の糧として与えたものは天からのパン、つまり「マナ」でした。必要以上に集めても、次の日まで保存がきかず腐ってしまうものでした。ただ安息日の前のマナだけは不思議と腐ることなく、安息日にも食することができました。まことに不思議な食べ物だったのです。
  • 「マナの原則」は、神こそ民のその日の必要とするものを与えることのできる方であり、その神に日々信頼して歩むことでした。やがてイエスはこの原則を踏まえながら、「神の国とその義とを第一に求め続けなさい。そうすれば、それに加えて、これらのもの(衣食住)はすべて与え続けられる」と言われました。そしてさらに「あすのための心配は無用です。」と言われ、「今日一日を神に集中して生き抜くこと」を教えられたのです。
  • 使徒パウロも愛弟子テモテに対して、「満ち足りた心を伴う敬虔(=信仰のこと)こそ、大きな利益を受ける道です。」(Ⅰテモテ6:10)と書き記しています。「満ち足りた心を伴う敬虔」の反対は「金銭を愛すること」です。肉を食べたいという欲望は、金銭があれば十分に満たすことができます。しかしそれは同時に誘惑とわなとなり、信仰から迷い出させるものだと警告しています。事実、そのようなわなに陥り、非常な苦痛をもって自分を刺し通した者たちがいることを述べています。

3. マナの味わいを取り戻すという今日的課題

  • 天から与えられる「マナ」、それは「主の祈り」の中にある「日ごとの糧」のことであり、食べもののことではありません。霊的な糧、すなわちそれは神のことばです。日々の糧を、私たちに必要なものとしてじっくりと食し、それによって「満ち足りた心」を得ることは今日的課題です。しかもそれは決して派手なことではなく、とても地味な取り組みなのです。
  • この地道な取組ができるためには、確固としたキリスト者としてのアイデンティティが必要です。流行に流されず、その日その日の気分で生きることなく、自分を見失わない生き方が求められます。それはある意味では定まった規則正しい生き方なしには得られません。一見、外からは変化や刺激の少ない生き方に見えますが、実は、むしろ日々の霊的糧の中にすばらしいいのちに満ちた宝を発見する生き方なのです。
  • 修道院の基礎を築いたベネディクトという人は、「定住」ということを強調しました。「定住」という概念は、自分自身とその行動に対して確固たる責任を持つことを意味しています。換言するなら、主にあって、自分自身の立ち位置を見出すことと言えます。考えを次から次へとコロコロと変えたり、流行を追いかけ回すことは、「定住」から程遠い生き方です。なぜならそこから迷いや不満が起こるからです。「定住」とはキリスト者としての自分の立ち位置を常に確認しつつ、自分に与えられた今日という一日を、神にあって充実して生きることを意味します。そしてそれは決して甘くない生き方です。神の前に静まり、神を慕い求め、神と親しく交わる規律ある生き方、そんな歩みへの渇望が今日の教会に求められているのではないかと思います。

2012.1.27


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